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(02.1.31発信)

弥生土器 出土続く
田和山南丘陵弥生遺構存在裏付け

田和山南丘陵(環濠遺跡は北丘陵)での道路開削事前調査で、さらに弥生前期土器多数が出土しました。田和山遺跡を考える会も参加している田和山遺跡活用協議会(田中義昭考える会代表委員ら世話人4氏)は、02年1月30日松江市教育委員会に次の3点を申し入れました。
1、出土土器の詳細を発表し、一般公開をすること
2、南側丘陵に弥生遺構の存在する可能性が高くなっており、南丘陵全体のの学術調査を行うべきである。
3、南丘陵での弥生遺跡出現は、当然北丘陵の環濠遺跡とのかかわりが問題となる。国史跡指定区域拡大も起こりうる。道路開削は結論が出るまで現状のままとすべきである。
市教委は、「事前調査は3月末で終了予定、県教委の指導を得た上で、出土土器などは現地で公開し説明会を開催する。南丘陵全体の学術調査は、今の市教委の体制では手が回らない。」と答えました。


(01.12.15発信)

懲りない松江市教委
また記録保存前提調査

田和山遺跡活用協議会(田中義昭元島根大教授ら4氏世話人)は12月12日島根県教委を訪ね、田和山開削道路予定地での文化財調査について申し入れました。同地では本サイトでお知らせしているように、弥生前期の土器片が見つかっており、県教委の指導で市教委が発掘調査中です。まだ調査も終わらず、結果報告もされていない状況下で、市教委岡崎文化財課長は「田和山遺跡活用ワークショップ」で、「記録保存し工事に着手する」と発言。事態を重視した住民団体が県教委に要請したものです。


(011201発信)

イスラム世界に眼を開こう
加藤克夫島大助教授の講演
12月1日島根県民会館で、田和山遺跡を考える会主催の、島根大学加藤克夫助教授(西洋史)による「イスラム教世界とキリスト教世界・交流と衝突の歴史」講演会が開催されました。
加藤助教授は、砂糖も木綿もアルコールもイスラム文明が人類にもたらしたと指摘、近代数学の形成は、イスラムが生んだアラビア数字のしようで始まったと、歴史を振り返りました。
わが国のイスラム認識の遅れについて加藤助教授は、地理的に直接交流のなかったことにあるが、明治以後の近代化が「脱亜入欧」のヨーロッパ路線であったこと、戦後派安保基軸の「米欧重視」であったことが主な理由と指摘しました。
地中海を取り巻く世界での、イスラム教とキリスト教の衝突と交流を辿った加藤助教授は、ヨーロッパ中心の資本主義世界システムのグローバル化の波がが、イスラム世界を呑み尽した経過を興味深く語りつくしました。
パレスチナ問題にも立ち入った後に、加藤助教授は、諸文化・諸民族の理解と共存なしには21世紀文明はないことを強調し、参加者に感銘を与えました。


(011021発信)
弥生の人はなぜ戦ったのか
岡山大学松木武彦助教授の話
「弥生時代の武器と戦い−弥生人の戦いと武器−」をテーマに田和山鑑定人・松木武彦岡山大学助教授の講演会が、10月21日松江市大庭町風土記の丘研修室で開催されました。松木助教授は次のように語りました。

 「1万年は続いたと見られる縄文時代には、戦いを物語る痕跡がない。採集と狩猟に明け暮れた平地林での縄文時代の暮らしは、自然の恵みへの祈りが精神生活のすべてであった。
紀元前4・5世紀頃、朝鮮半島から稲作をもたらした人々が渡来して、開拓と農耕の弥生時代が始まり、同時に「支配と戦」の幕が開いた。自然と人がお互いに受け容れながら存在した縄文の精神世界は、農耕と戦で、自然と人を意のままにする弥生の精神生活へと、大きく転換する。弥生遺跡は、例外なく武器と守りの施設が出土し、刑死者の墳墓などを含む殺傷人骨、副葬品・装飾品としての武器、それに芸術表現に見る戦いも観察できる。
双方の長所をとり入れ、縄文を思い弥生に学ぶことが出来よう。
戦争や支配をなくすにはどうしたらよいか、の答えもそこにありはしないか。
田和山は、守りの施設であり、実際に守りに使用されたというより、安土城以後の日本の城郭のように、「守りのシンボライズ」として維持され、見つめられたのではなかろうか。」

(011017発信)
古代出雲と朝鮮半島の交流に注目
島根県・松江市・島根大学・山陰放送が主催する「第15回環日本海松江国際交流会議」北東アジアシリーズ2001「北東アジアのなかの古代出雲」が、10月16日松江市島根県民会館で開催されました。
京都大学上田正昭名誉教授、九州大学大学院西谷正教授、釜山大学校申敬K教授、啓明大学校李炳魯教授、在日朝鮮歴史考古学協会全浩天会長、在日歴史研究者李成出氏の6氏による講演がありました。
申敬K教授は、釜山・金海の住居址出土の土器は、出雲の弥生土器が多く見られることを紹介。3世紀末頃に古代出雲住民が朝鮮に多数渡来した、との見解を述べました。土器の変遷過程から、「渡来した古代出雲人は、加耶国住民になり、加耶国建設に従事したと考えられる。」と述べ、新説として注目されています。
西谷正教授は、朝鮮と日本の古代における交流について、「初期の須恵器・馬具・象嵌技術・文字などは、南朝鮮の加耶国、百済国起源でありながら、大和王権を経由して流入している。これにたいし、新羅土器・鉄てい・鋳造鉄斧・大環式耳環(わが国唯一安来出土)などは北朝鮮の高句麗・新羅からの直接の流入としか思えない。新羅と大和王権が、緊張関係にあった時代にも出雲は独自に交流を持っていたと考えられる。」と話しました。
西谷教授は、昨年1月19日にこの場所で田和山を守ろうというシンポジウムが有り、自分も呼ばれて話をしたが、その時田和山を発掘していた瀬古諒子さんが、「これは何ですか」と持ってきた石片があった。森浩一さんに見てもらったら「西谷に聞け」と言われたと言う。
帯留めではないかととっさに答えたが、留め穴がない。記憶をたどったり、文献を調べたりで、国立博物館に、楽浪出土の類似品があるはずと気づいた。などと鑑定の裏話を披露しました。
西谷教授によると、「硯」と言うより、「研石」が正しい、2個の石板に墨と水をはさんで墨汁をとぎ出す仕掛けだ、とのこと。
わが国唯一の発見であるが、これをもって直ちに弥生期に文字の文化が渡来していたと考えるのは間違いで、大変なお宝として持ち込まれたのではなかろうかと西谷教授は見解を述べました。

(011009発信)
前漢楽浪郡の「すずり」と断定
田和山第一環濠出土の 「石板」

01年10月4日山陰中央新報1面所報によると、田和山第一環濠出土で、特殊な石板状石製品とされてきた石器は、前漢時代に朝鮮平壌に設けられた漢の役所で使用されていたものと同じと判明しました。
九州大学大学院西谷正教授が、10月16日開催されるフォーラム「北東アジアシリーズ」で報告します。
松江市教育委員会「田和山遺跡」11ページから該当部分を紹介します。

(010926発信)
田和山は 壊れない 生きつづける
登山会と講演会を連続開催

田和山活用協議会では、国史跡指定を記念して現地登山会を開催します。
また田和山南半部古墳・神社跡など遺跡の見学会と意義を深める学習会を開催します。
無謀な開削を断念させる運動を続けます
田和山記念登山   平成13年10月7日午前9時半から午後4時まで
              登山者には山頂で記念スタンプを押して上げます。
記念講演会      平成13年10月8日午前10時から12時まで いきいきプラザ4階403研修室
             講師  大谷晃二 松江北高校教諭
             演題  田和山1号墳と周辺の遺跡
田和山見学会     平成13年10月8日 午後1時から午後3時
              講師    田中義昭島根考古学会長ほか
              見学地   田和山1号墳とその周辺遺跡、旧野代社跡
なお、今後も「弥生時代の田和山」「戦国時代の田和山」について講演会を連続開催します。
講師予定は、松木武彦岡山大学助教授、佐古和枝関西外語大学助教授、藤岡大拙島根女子短期大学長

「ダブル祝賀会」盛況
01年9月14日、松江市学園1丁目レインボウプラザで、高野孝治弁護士の著書「蘇る弥生」出版祝賀、田和山弁護団の和島誠一賞受賞祝賀の、「ダブル祝賀会」が開催され、田和山遺跡保存活用運動団体や、鳥取県妻木・晩田連絡協議会、ティファニー住民訴訟原告団など、多彩な顔ぶれでにぎやかに歓談しました。
田和山弁護団からは、大賀弁護士を除く3氏出席。岡崎勝彦島根大学教授も出席しました。
席上高野弁護士は、和島誠一賞副賞の金5万円を、田和山遺跡保存活用協議会に寄付すると発表。石橋世話人が受け取りました。

開削案の決定は「背信行為」
住民団体が紙に申し入れ
市長の謝罪を求める
田和山遺跡活用連絡協議会は、田中、石橋、恩田各世話人ら7名が市役所を訪問、谷正次市福祉部長、友森副教育長らに、抗議し、謝罪を求めました。谷福祉部長は、ワークショップの運営で市民に不信感を与えたのは運営責任者として反省などと謝罪しました。

「開削以外は考えていない」と放言
松浦正敬松江市長やっと「本音」吐く

(010901発信)松浦市長は31日の記者会見で、新市立病院の進入路について開削工法にすると発表。市民から意見を集めたワークショップや松江市デザイン委員会での、議論は何のためだったのかと、住民の間に不満が噴出しています。
市長は、土木専門家の検討を重視、改作以外にはないとした土木専門家の意見に従ったといい、ワークショップ開催を決めた動機を、土木専門家が出した開削工法との結論を、市民に理解してもらうためだったと記者会見で発言「はじめから結論ありき」のワークショップであったことを認めました。
「ワークショップで出た結論を反映する余地がなかったとすれば、はじめから開催せずに、行政の責任で結論を決め、市民に説明すべきだった。」と山陰中央新報も「解説」しています。
住民運動に結集した市民らは、2日にも抗議集会を開き、今後の運動の方向を議論します。

市部長「遺跡との共存」を否定する見解
分断道路を新病院の生命線と強弁

(010823発信)「考える会」など4団体で構成する田和山遺跡活用協議会は、8月22日松江市福祉部長、副教育長らに面会し、分断道路の開削をやめ、田和山山容の保存を求めましたが、谷福祉部長は住民団体の高架道路案も問題にならないと一蹴し、分断道路は新病院の生命線と強調しました。
病院敷地を標高18メートル(高速道より1メートル高い)に嵩上げ造成することも、新病院からの宍道湖眺望を保証するために不可欠と答えました。最終的には市長判断としていましたが、有無を言わさず開削強行もささやかれています。

遺跡と病院の共存をを課題に
松江市民ワークショップが開催
市民世論は遺跡の全面保存を要求

「新松江市立病院と田和山遺跡の共存を考えるワークショップ」シリーズ1の第1回が、01年7月8日午後1時半から開会されました。
松江市は参加者を公募しましたが、予定の80人を超過し140人の応募があったので抽選で人選をしました。
80人の参加者は当日午前10時から現地に集合し、担当者から遺跡の概要と新病院の建築計画について話を聞きました。
ワークショップでは、松江市長、市立病院長が挨拶した後、01年2月設計コンペで最優秀と選定された石本設計事務所案によって検討することが説明されました。ワークショップは、松江市デザイン委員会林氏・伊藤氏の進行で始まり、松江市福祉部長、文化財課長、石本設計事務所代表が説明しました。(松江市デザイン委員会とは、松江市内で行なわれる公共事業等について、助言・提言を行なう機関として平成9年に設置された委員5名、専門家2名からなるものです。)
当日の検討課題は「共存に配慮した専門家による四つの検討案を理解しよう」というもの。4案とは、
A案:田和山遺跡保存を中心的に考えた検討案
   (田和山を南北分断する1号進入路を造らない案)
B案:田和山遺跡に配慮した計画案
   (1号進入路を何らかのかたちで作る場合)
B−1案:1号進入路を開削で作る案
B−2案:1号進入路を一部トンネルで作る案
B−3案:1号進入路をトンネルで作る案
病院、消防関係者から、1号進入路の必要性について説明がありました。
消防の話は、「1号進入路以外は救急車は入らない」との暴論で、出席者にたしなめられ訂正の一幕もありました。
この後、設問「1号進入路の是非についてお聞きします」に全員が答えました。結果はすぐ発表されました。
回答@「1号進入路の必要性についてはよく理解できた」38+4(複数回答・以下同じ)
回答A「指摘された問題点については理解できるが、1号進入路以外の方法による解決を探って欲しい。
あくまでA案にこだわりたい。」33+6
回答B「1号進入路が必要な理由についてよく理解できなかった。」6+8
回答C「その他」9
この後、各テーブルで討論・意見交換が行なわれ、最後に全員が各自の責任で四つの検討案について評価結果をまとめました。
全員が提出したシート(4案に○×をつける)が張り出され、意見の動向がはっきりしました。結果は次ぎの通りです。
A案をよしとするもの    54
B−1案           21
B−2案            2
B−3案           15

司会の林氏は、「これは松江市福祉部にはショックですねえ。」
「今後の運営をどう考えたらいいでしょう」といっていましたが、第1回の会合は以上の結果で終了しました。

「南北分断」に反対、広瀬教授が発言
田和山まちつくりフォーラム


 田和山遺跡を考える会(田中義昭代表委員)など保存運動住民が結集した田和山遺跡活用連絡協議会主催の市民参加フォーラム「遺跡を活かしたまちつくり」が、さる16日松江市スチックビル交流ホールで開催されました。
 奈良女子大学広瀬和雄教授は「遺跡公園は少数の例外を除き閑古鳥が鳴いている。幾度も足を運ぶリピーターをどうつくるかが鍵」と話しました。
 道路予定地で発見された縄文時代の環状列石遺跡を国史跡の指定を受け活用をはかっている秋田県鷹巣町九島平悦生涯学習振興課長は、「住民参加をどうつくりだすかが鍵」と、鷹巣町での実践を紹介しました。
 田和山を見る女性たちの会加藤尚子代表は、「お山を壊さず病院と共存を図り、田和山を心の癒しの場に」と訴えました。
 田和山遺跡を考える会加藤暁事務局長は、古事記にある猿田彦と天宇受売に係わる神話を紹介,「田和山は古事記と出雲国風土記の記載が現実の風土と一致した事例」と活用の意義を強調しました。
 まほろばガイドの会小橋克巳氏は、弥生時代の土木技術を学習できる「3段の波状環壕断面の観察施設」を設置することを提案しました。
 続いて参加者を交えて討論が行われ、田和山遺跡現状保存を出発点に、遺跡を活かした街つくりをめざし住民参加を一層進めようと話しあいが行なわれました。

(01年5月17日付「山陰中央新報」所報。国史跡指定にあたっての田中義昭考える会代表委員談話。

(5月17日付「毎日新聞」所報)

抜けるか「伝家の宝刀」住民監査請求
「考える会」が主役にならねばと話し合い

01年3月24日(地震の日)午後1時半松江市プラバホール青少年室で、田和山保存のために監査請求・住民訴訟に「特化」した組織(「田和山愛護団(仮称)」)の相談会が開かれ、発起人の加藤暁始め5人が集まりました。
「遺跡との両立」「遺跡と調和のとれた病院」など、「市長の妥協」を演出する「足して2で割る戦術」が奏効して、田和山保存の市民世論が沈静した情勢など、を共通の認識として、自由な討論と意見交流を行ないました。
結論としては、「もう少し様子を見よう」ということになりました。
監査請求と住民訴訟に「特化」した組織については、賛否両論あり、「田和山遺跡を考える会」で取り組むことの検討を要請したいとする意見もありました。
日本神社史に貴重な貢献をする遺跡である田和山が「南北分断」されようとするときに、松江市には誰一人声をあげるものがいなかった、でいいのでしょうか。
御意見をお寄せ下さい。

21世紀によみがえる田和山遺跡
今ぞとびたて、田和山 夢・未来
「考える会」が講演会

01年3月3日、田和山遺跡を考える会はプラバホール2階大会議室で講演会を開催しました。
講演会では、椎名慎太郎山梨学院大学法学部教授が、「始めて住民要望が実った。田和山文化財訴訟の意義」と題し講演、
椎名先生は、文化財保護法制定以来「開発か保存か」を巡って争われた事例と教訓を歴史的に解明し、「90年代は自民党長期政権が崩壊し、懸案の改革が進んだ10年でもあった。特に環境アセス法、地方分権法は、今後の運用と使い方では、保存運動の武器になり得る面もある。この中で田和山文化財訴訟と遺跡保存実現での決着。厳しさは増しているが一筋の光明も見えた。」と話しました。
田和山遺跡を鑑定した松木武彦岡山大学助教授は、「第1環壕の初期の形態は、壕が尾根を切っていないことに特徴があり、巡っていないから環壕とは言えないが、適当な呼び名が見つからない希少な遺跡。我が国第1番目の発見例だ。」とのべ、環濠の外側に発見された土塁の築造法を詳細にのべ、我が国土木技術史研究の貴重な資料となると話しました。
松木先生は、田和山遺跡は登呂遺跡、吉野ケ里遺跡に続いて、弥生時代の人の心の持ち方にせまることの出来る、国民のアイドルとなる遺跡と断言。今後一層の研究が望まれると述べました。
また出土石器のうち、「砥石」とされているものが、中国の「硯」に酷似していると指摘、楽浪出土の石器とも似ており研究が必要と指摘しました。
講演の最後に、田和山弁護団高野孝治団長がたち、「勝てると思わなかったのに、判決までに勝っちゃった。被告の文化財行政の失敗にも助けられて、裁判で破壊を阻み、被告の方針転換の時間を稼いだ。田和山は南にも貴重な遺跡が眠っている可能性が高く、調査もせずに南北分断など論外。」と訴えました。
加藤暁「考える会」事務局長が、「田和山遺跡完全保存と南北分断取り止めを求める住民監査請求」を提案、全員拍手で賛成しました。
田和山の遺跡完全保存と南北分断取りやめを求める
住民監査請求を

田和山遺跡を考える会加藤暁事務局長は、3月3日に講演会で要旨次のように発言し、参加者は拍手で賛同しました。
住民監査請求とは
 住民による監査請求(自治法242)及び住民訴訟(同法242の2)は、いわゆる納税者訴訟制度と呼ばれているもので、地方公共団体職員による「違法又は不当な行為」又は「怠る事実」により納税者としての住民が損失をこうむることを防止するために、そのような財産上の違法不当な行為の予防・矯正をはかる権利を直接住民に与えるとともに、その措置の実効性を裁判所によって確保しようとするもの。
 「違法不当な行為」とは、@公金の支出、A財産の取得・管理又は処分、B契約の締結又は履行、C債務その他の義務の負担、の4種類の行為に限られる。また、「怠る事実」とは、違法又は不当に公金の賦課・徴収又は財産の管理を怠る事実である。
これまでの監査請求と訴訟
 98年10月市民245名が、田和山北半部を造成し遺跡を破壊することは文化財保護法違反であるとし、公金支出の差止を請求した。松江市監査委員は、文化財保護法違反にあたらないと請求を却下したので、市民22名が98年12月25日松江地方裁判所に提訴した。被告松江市長は、田和山は保存すべき重要な遺跡ではないと答弁し、法廷で原告と争ってきた。
新しい監査請求の要旨
 田和山は高さ約40m南北約500m東西約250m面積約6、7ha。森に覆われまどやかに整った、おだやかで美しい山容を呈しており、神社の原初形態とされる、山そのものを神とあがめる「かんなび山」「みむろ山」などと呼ばれる、円錐形・笠型の山容を示している。田和山は、弥生時代の祭祀遺跡、古墳時代の埋葬遺跡、中近世の神社跡伝承地など重要遺跡群を一つの山容に渾然存在させている。
 前市長は田和山北半部を市立病院等用地に造成するため弥生環壕集落遺跡等を破壊しようとし、市民らが提訴して争っていたところ、現市長が昨年9月、市立病院用地を東側水田に変更、遺跡大部分を保存し「病院と遺跡を両立させる」ことにに計画を変換した。しかしこの計画では、環壕の一部等遺跡が失われる上、南北分断道路で、初期環壕の一部である南北尾根も消失し、田和山の美しい山容は無残に破壊される。
 松江市長が、市立病院の敷地選定を誤り、狭隘な田和山東側水田に市立病院を建設するために、北半部弥生遺跡等の完全保存を怠り、その一部でもある尾根筋を掘削し、田和山を南北分断して弥生時代以来信仰を集めた美しい歴史的景観を破壊することは、、文化財保護法第4条第2項に違反する違法行為であり、憲法第13条及び第25条に保証された環境権を蹂躙する違法行為である。
 かかる違法行為に松江市の公金を支出することは、地方自治法第232条の3に違反する。
 よって松江市監査委員は、松江市長に対し、北半部遺跡等完全保存と、南北分断による田和山遺跡群と景観の破壊を取りやめることを要求されたい。
「考える会」が総会を開催
井上貴央鳥取大学医学部教授が講演

田和山遺跡を考える会は、01年2月17日島根県民会館303号室で総会を開き、21日の第10回公判を前に、加藤暁事務局長が経過を報告しました。「裁判は、田和山北半部での弥生遺跡保存が要求であり、市長が大部分保存を決めたからには、実質勝訴であり訴えは取り下げも考慮せねばならない。しかし南北分断など問題も残されており、新しく住民監査請求・住民訴訟を提起する必要がある。」というもの。21日の公判の結果を踏まえ、3月3日の講演会で「考える会」の方針提起をすることになりました。
総会記念講演では、井上教授が、鳥取県青谷上寺地弥生遺跡から出土した人の骨の鑑定から、弥生の戦のありようを偲ばせる興味深い事実を示しました。
上寺地遺跡で出土した人骨はおよそ2千点、約60人分と推定。その中に戦で与えられた殺傷痕のある人骨は、殆どが青銅の剣によるもので、鏃による例の報告はありませんでした。
犬の骨が人骨といっしょに多く発見され、弥生から家畜とされていたことをうらずけました。
カワウソやアシカの骨も見つかり、鳥取県の絶滅品種の確定にも貢献しました。
総会としては結成以来最高の約80人が参加、訴訟の今後の方針について熱心に発言していました。

正念場を迎えた田和山遺跡保存運動
00年11月24日「しんぶん赤旗」学問文化欄所載

      田和山遺跡を考える会事務局長 加藤 暁
 田和山遺跡は松江市の南郊乃白町、野白川下流の宍道湖南岸にあります。
 近くには、弥生期の土壙墓や、四隅突出型を含む方形貼石墳丘あわせて三〇余があった友田遺跡と、弥生住居・集落址の欠田遺跡があります。
 田和山は、南北約五百b東西約二百五〇b、標高五〇b弱比高約四〇b、森に覆われこんもりと、ふくよかに美しい独立丘をつくっています。一九八九年松江市教育委員会の分布調査で、古墳九基、墳丘墓一基、神社跡一箇所、土壙墓群一箇所合計一二ヶ所に遺跡が目視確認されました。同年六月に市教委の依頼で現地を視察した島根大学山本清名誉教授は、「田和山の現地視察による所感」との報告書を残しました。
 山本名誉教授は、「所感」の中で、「この丘陵に、今知られている神社跡のほかに、より古い祭祀遺跡の埋蔵されていることも予想される。それは、大船山(平田市)の例などとともに日本神社史の上に新しい光を当てる可能性を秘めている。」と指摘しています。
 九三年三月松江市が田和山を取得し、全域に市教委所管の「松江市民自然学習の森」を開設しました。
 九七年三月故宮岡寿雄松江市長は、宍道湖畔にある松江市立病院を、田和山北半部に移転させる構想を発表、同年四月から用地造成の事前調査を開始しました。
 北半部には、幾つか古墳があるものの「発掘調査をすれば造成可能」との市教委の判断があったからです。
 九七年四月、幾つか古墳が連なっているとされた、山頂を西に下る尾根から、発掘調査が始まりました。そこには古墳はなく、弥生土器が出土する環壕があり、同年八月には、三重に山頂を巡っているとわかりました。しかし松江市長は病院建設を優先させ、田和山遺跡は記録保存との方針を変えず、九八年一二月には島根県教育委員会も「記録保存やむなし」と市教委に追随の回答をしました。
 同じ九八年一二月二五日、島根大学田中義昭元教授を代表とする原告団が、住民監査請求を前置した、文化財破壊への公金支出差止め住民訴訟を松江地方裁判所に提起しました。
 九八年八月、歴史家速水保孝氏が呼びかけ、結成された田和山遺跡を考える会(代表委員田中義昭氏ら四氏)は、学者研究者による現地公開視察や保存要求署名運動、住民見学会や学習会を繰り返しながら、大規模のシンポジウム・講演会を一〇個月に四回実施しました。新聞などには学者・研究者の保存を要望する研究論文多数が掲載され、NHK衛星も「遺跡発古代ロマン・山頂の聖地」を放送しました。
 今年一月松江市・県民会館での大塚初重、刈谷俊介、広瀬和雄、西谷正各氏によるシンポジウムの成功は、保存世論を大きく盛り上げました。保存要望住民署名は一万二千を超えました。
 遺跡追加調査で幾つかの新発見が続いたこととあいまって、県教委も市教委に現状保存を要求する事態となりました。
 前市長死去に伴い、六月就任した松浦正敬新市長は、九月一一日松江市議会答弁で、田和山遺跡の「大部分保存」への方針転換を発表しました。
 「田和山訴訟」を審理中の松江地裁は、一一月一〇日「進行協議」を設定、被告松江市側の方針転換と訴訟への態度表明を求めました。
 被告側は進行協議の場で、遺跡を大部分保存するので、原告の違法公金支出との請求原因はなくなったと、「訴状を取り下げろ」といわぬばかりの態度を示しました。
 しかし、原告側の追求で、東側で環壕が一部破壊されること、南東山麓部分は未調査のまま道路用地にされることなどが確認され、遺跡保存より病院用地確保優先の市側の態度が明確になりました。また、田和山を南北に「一刀両断」する道路開削は、変更できないと市側は繰り返しました。
 遺跡分布地と知りながら「調査すれば造成可能」と強弁し、用地選定と着工まで許した市教委の誤りには、反省の色を示していません。
 原告は部分破壊への公金支出の違法性を追及して闘うと一〇日声明しました。
 松江地裁が求めた田和山遺跡の鑑定について、鑑定人松木武彦岡山大学助教授は、一〇月三一日A四判二三頁もの「所見」を発表。
 田和山遺跡は、南東方向からの山頂へのアクセスに特異な方向意識があると指摘。最初期一重の環壕は、尾根を掘り込まず残しており、田和山南半部に至る南尾根は山頂の聖地の媒路として重要といっています。
 また環壕の外周に土塁の存在を鑑定ではじめて発見し、「稀有かつ日本最古の発見例」とし、弥生集落研究のみならず土木技術史研究にも貴重な資料を与えるとしました。
 田和山遺跡を考える会は、訴訟で部分破壊への違法公金支出差止めを要求するとともに、遺跡の保存・活用のために、広範な住民運動と支えあって運動する決意です。

田和山遺跡を考える会が総会を開催
実質的な「勝利」宣言の総会となる
 田和山遺跡を考える会の総会が10月28日午後2誌から島根青少年館で開催されました。田中代表委員の開会挨拶に続いて会員池田恵子氏を司会進行者として議事が行われました。
 総会には、田和山を見る女性たちの会吉田トキ江氏、古代史ファンクラブ恩田都温氏、田和山を活かす会石橋博氏、晩田山の遺跡保存連絡会松本正孝氏を来賓として迎え、来賓からはそれぞれ総会への挨拶が述べられました。
田中代表委員が経過報告・裁判報告
 田中代表委員は、要旨次のように経過報告、裁判報告を述べました。
「国史跡指定を、との要求が実現に向かっている今、振り返ると経過報告を三つの時期に分けることができます。まず第一は考える会結成から住民訴訟提起までで、問題提起、研究者中心の世論喚起の時期です。第二は本年1月9日の県民会館シンポジウムまでの、法廷審理が始まり、仮処分申請が受理され、佐原真氏を招いてシンポジウムを実施、市教委見学会への積極的参加など、攻勢に転ずる時期です。そして第三が、今年1月大塚初重氏を招いてのシンポジウム成功以後、見学会やお祭りなど本格的市民運動による保存運動が展開された時期です。そして市長が方針を転換することを表明し、史跡指定が確実となったのです。市民運動成功のかぎは、現地見学が徹底して行われたこと、いわば「現地主義」が成功を勝ち取ったのです。
 裁判についても、文化財保存要求訴訟で勝った試しが無かったので、自信が無かったのですが、裁判の展開を振り返ってみると、裁判が役に立ったということができ、全国的にも大きな貢献になったと思います。
 今後の問題は、遺跡の保存活用は、行政に任せっぱなしではいけない。任せられない。住民が主役になる運動を展開していきたいと思います。」
田和山遺跡の重要性
 会員今岡稔氏(島根考古学会幹事)は、田和山遺跡を欠田遺跡・友田遺跡と関連つけて理解することを提唱、つぶて石、石鏃始め出土遺物類の研究の重要性を指摘しました。環壕については、地面を掘ったものと思い込みがちだが、田和山では掘り込んだ溝と積み上げた土塁とのセットであることが、遺跡鑑定で判明し、環壕の切れた部分も土塁は続いていた可能性があると指摘しました。山頂の9本柱の建物については神殿説とともに、中世山城の物見櫓の例を紹介しました。
 今岡稔氏は「ノギノクニ」の興亡研究のかけがえの無い遺跡である田和山遺跡を大切に保存研究したいと述べました。
田和山遺跡活用の提言
 会員会下和宏氏は、田和山遺跡は、縄文以来、宍道湖・中海の汽水域にはぐくまれた、神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡・西谷3号墓あるいは妻木・晩田遺跡などとともに、「ユネスコ世界遺産(複合遺産)」の登録を目指すべき、と提案しました。

 総会では、代表委員速水保孝氏の特別発言もあり、裏面記載の総会決議を全員の賛成で採択して議事を終了しました。

(10月11日発信)
国史跡整備計画で文化庁に要望
 「考える会」田中義昭代表委員始め3名が、10月5日文化庁で記念物課里見朋香課長補佐・岡村道雄主任調査官に会い、「環壕遺跡完全保存、田和山南北分断反対」を要望しました。中林よし子衆議院議員が同席しました。
 岡村主任調査官は田和山を視察した感想を、「現地に立つと、図面と違い立体感がある。遺跡の性格が伝わってくる、保存してどれだけの活用ができるかイメージが浮かぶ遺跡だ。文化庁は県教委をバックアップしてきたが、市側も同意してくれて残せてよかった。」と語りました。
 環壕東側について岡村主任調査官は、「病院敷地との接点部分は、病院の詳細レイアウトができてからすり合わせて両立を図ることになる。補充調査も行いたい。」と述べました。
 田和山「南北分断」については、「市の選択で、文化庁は遺跡のない部分の工事はとめられない。トンネル化で病院のイメージが悪くなるとは思わないが、一〇数億円もかかると聞くと、止めてくださいとお願いはできない。」と述べ、分断されても橋をかけるなど活用の道はあるとしました。
 考える会側は、「文化庁は南北分断にお墨付きを与えたのか」と質問。岡村氏は、「そんなことはない。遺跡のない部分に注文をつけられないと言っただけ」と答えました。
 文化庁側は、斜面の崩れた部分などそのままにして置けないので、早急に埋め戻して冬を迎えるようにしたい。今後は南側丘陵の確認調査などをし、立派な活用ができるよう、住民団体の協力を期待すると話しました。
 考える会側は、史跡隣接地が病院適地といえるか市民的疑問があり、今後も景観を含め全面保存の運動を続けると表明しました。


(10月11日発信)
鳥取県西部地震、田和山には崩落などありませんでした。しかし、下図で、山頂の聖地の下にある3本の残された立木のうち、1本が倒壊に瀕しています。切倒したらいいという人もいますが。どうしたらいいでしょう。

(9月29日発信)
松木鑑定人の現地調査終了
「考える会」は、10.28総会を開催へ

田和山遺跡の学術的価値を評価する鑑定人松木武彦岡山大学助教授の現場作業は、15人のボランティア作業員の協力を得て、実施されました。この作業は7月28日の調査で土塁を発見した際に鑑定人が市教委にトレンチなど7箇所の掘削清掃を依頼していたところ、被告側訴訟代理人が、費用の点が解決しなければ応ぜられないと、拒否したことからボランティア作業となったものです。(8月25日発信、「被告松江市長けちな要求」を参照してください。)
この日の鑑定で北側からも第1環壕最古の断面が確認され、山頂に近い部分に最古の環壕が周回していたことが確認されました。松木鑑定人は、弥生土器や木炭を採取した南東部山麓加工段に注目、環壕途絶部の直下であることなどから、遺跡にとって貴重な場所でないかと語りました。
松木鑑定人は、次は出土遺物の調査、田和山での調査は終わったと述べました。10月にも鑑定書が提出されると期待されます。
田和山遺跡を考える会は、裁判が山場を迎える10月下旬に総会を開催します。
運動を総括し、田和山遺跡の全面的評価を発表し、裁判闘争も振り返ります。
住民団体からも代表を招待、意見を交流します。
開催日時 10月28日午後2時(午後4時閉会予定)
場所    島根青少年館 (松江市大庭町1751‐13、電話21−2818)
(9月12日発信)
田和山の景観全面保存を要求
三重環壕全部も保存を要求して市議会に請願

考える会では、第一に山頂の聖地を堅く守っている三重の環壕は全面保存すべきと考えています。
弥生時代からのこの地域の守護神であった田和山を、道路で分断は許されないと考えています。
分断道路計画は下記の図面の通りです。
市議会に、西村敏、飯塚悌子、小笹義治、角田正紀4議員の紹介を得て、請願書を提出しました。

(8月24日発信)
田和山をこんな目に合わせようなんて
遺跡は南北不可分、東西一体です


99年9月全貌を現した田和山の三重環濠

三重環壕の全貌

(00年8月22日発信)
「田和山を生かす市民の集い」に三百人
市民皆で歴史都市・松江の未来を考えようと8月20日、松江市くにびきメッセ国際会議場で、「田和山をいかす市民の集い・古代から未来へ」が『田和山を生かす市民の集い実行委員会』主催で開催され、研究者や市民・学生ら三百人が参加しました。
集いでは、まず「歴史都市松江の魅力」と題して島根女子短期大学藤岡大拙学長が基調報告。
「江戸から明治にかけて松江の人は、松江城やお寺など近世の遺産を自慢の種にし、松江市南郊に沢山ある古代文化遺産などは、遠い存在でしかなかった。今もそれはあるのではないか。」と切りだし、「『新市内』の古代文化も、お城同様大切にしたい。古代文化の里と近世の城下町との二つの顔を持った都市はそうあるものではない。」と主張しました。
続いて立った下条信行愛媛大学教授は、「激動の田和山時代を見る−−山陰・瀬戸内・九州から」と題して話題提起。
「田和山遺跡は従来型の「環壕住居址論」や、「高地性集落論」では捉えきれない性格の遺構だ。」と強調。
「外的には鋳造鉄器や細型銅剣など新たな外来文物の伝来の時期、内に向かっては地域の統合、外に向かっては北部九州などと対外交渉の強化が課題の時期で、祭祀の盛衰が遺跡の興亡につながった。」と述べました。
最後に大阪景観設計研究所の生田淳一設計室長は、「古代出雲復元のサンプル」と題し、松江市北部の松江城を中心とする近世文化ゾーンに対し、田和山を中心とする古代文化ゾーンを提起、新しい町つくりを市民参加で進めたいと述べました。
講演のあと、島根県立大学豊田有恒教授をコーディネーターにして、講師による討論が行なわれました。

田和山遺跡保存・活用はかるシンポ開催へ
松浦正敬市長の就任で、保存運動は新しい局面を迎えています。一層世論を盛り上げることが保存の鍵です。
6月21日第1回の実行委員会が開催され、次のような内容で準備が進められています。
第2回目の実行委員会が、7月5日「いきいきプラザ」で開催されますので、関心のある方はご参加下さい。
期日 00年8月20日 (日) 午後1時から4時半まで
場所 くにびきメッセ 国際会議場
基調講演  藤岡大拙氏 (島根県立女子短期大学学長・八雲たつ風土記の丘所長
演題     歴史都市松江の魅力
話題提供  下条信行氏 (愛媛大学教授)
        「激動の田和山時代をみる−山陰・瀬戸内・九州から」
話題提供  生田淳一氏 (大阪景観設計研究所設計室長)
        「古代出雲世界復元のサンプル−田和山遺跡を核とした歴史ゾーンづくりの提案」
このシンポジウムは、参会者の意見発表を沢山取り上げたいと考えています。 

出雲大社で「神話」の本殿宇豆柱を検出
ミレニアム的大発見に関係者興奮
重大遺跡が出雲大社で発見されました。出雲大社では、99年9月以来、本殿裏に地下室を作るため予定地の発掘調査をしていましたが、このほど出雲大社の歴史を物語る重要遺跡が発見され、出雲大社は地下室建設を取りやめ現状保存することとし、学術調査が進行中です。
<新たな発見>
@ 平安時代後半頃の本殿の柱が発見されました。出雲国造千家家に伝わる「金輪造営図」の通りの姿で、直径1.4bの柱材3本を一つに束ねた直径約3bの柱のうち、地中に埋まっていた根元部分が検出されました。
A 古墳時代前期、4世紀頃の土器群とともに、勾玉等の祭祀遺物や(製鉄)鍛冶炉跡、溝が確認されました。
B 時代が下って室町時代から戦国時代の柱穴、柱材、礎盤などが確認されました。
これらの発見は、我が国神社史・宗教史や、建築技術史の解明の最重要資料であり、クニや国家の成立と変遷、出雲大社の果たした役割などを検証する重要な成果となっています。考古学者・歴史学者や、行政関係者に興奮が広がっています。
松江市田和山遺跡の「山頂の聖地」北端には、田の字型に九本の柱穴がある「2軒建物」遺構があります。國學院大学椙山林継教授は、99年9月21日付「神社新報」に、田和山遺跡についての考察を発表し、その中で「さて田和山遺跡を見なおすと、頂上北端の2間角九本柱の建物は、出雲地方では、出雲大社をはじめとする大社つくり本殿の柱のあり方と基本的に一致している。」と指摘しています。
また、島根大学山本清名誉教授は、10年前の田和山調査報告で、「この丘陵には、今知られている神社跡のほかに、より古い祭祀遺跡の埋蔵されていることも予想される。それは大船山(平田市)の例などとともに日本神社史の上に新しい光をあてる可能性を秘めている。」と書かれたが、驚くべき先見性です。
出雲大社本殿造営史が明らかになれば、出雲大社造営に先立つ出雲の祭祀遺跡、なかでも田の字型に九本の柱を立てる2間建物に、神殿の原型として注目が集まるのは確実です。田和山は現状保存の運命にあります。
発見された遺跡等の詳細のお知らせ

(00年4月20日発信)
松江市文化財保護審議会
田和山現状保存再考をせまる
松江市文化財保護審議会(木幡修介会長)が18日開催され、岡崎文化財室長が14日に終了した追加調査結果について報告しました。蓮岡法?氏はじめ委員たちからは、現状保存をもとめる意見が相次ぎ、木幡会長は採決はしなかったが「残す方法はないかという積極的な意見が多かった。何かいい知恵はないか、率直にこの問題を考えてほしい。」とのべ、市教委に再考を求めました。
原教育長は記録保存方針は変わらないと話し「委員の意見を踏まえて市長に相談したい」と述べました。

(4月8日発信)
島根県教委が方針「転換」
田和山現状保存を表明
4月5日松江市田和山遺跡を視察した、日本考古学協会の埋蔵文化財保護対策委員矢島国雄明治大学教授らは、松江市教委で原教育長に面会、重要な弥生遺跡なので現状保存をと要望しましたが、市側は「記録保存は苦渋の選択」と繰り返しました。次いで県教委文化財保護課にも要望した矢島委員長らに対し、勝部文化財保護課長は、「現状保存のためあらゆる努力をする。」と約束しました。
県文化財保護審議会が、全会一致で「現状保存の努力を」要望したことに続く、県教委の「方針転換」を示すものとして注目されています。

(4月3日発信)

田和山に5百人超える「人垣」を
田和山はなまつりの会は、4月15日午後2時から田和山山上で「田和山はなまつり」を開催、5百人参加した3月20日の田和山まつりを上回る参加者で環壕を埋めつくそうと訴えています。
日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会矢島国雄委員長(明治大学教授)が、4月5日午前、公式に田和山を視察・調査し、午後2時半から松江市・島根県の教育委員会を訪ね、意見具申をします。
「神々の聖地・田和山」講演会盛況
4月2日午後1時、松江市東津田町「いきいきプラザ」4階会議室で開催された「神々の聖地・田和山」講演会は、2百人の参加で盛況でした。
講演会では、大阪府文化財調査研究センター藤田憲司北部調査事務所長は、「田和山から見る出雲の原風景」と題して講演。わが国の古代を語る文書に現れた歴史は、古事記・日本書紀など出雲を舞台にする神話が3分の1を占めている。
出雲での考古学的発見は、畿内での大和政権成立前の日本の様子をうかがえる重要資料と強調しました。田和山遺跡は田和山南半部及び薬師前遺跡とあわせ調査し評価すべきと強調しました。
ついで神戸外国語大学佐古和枝助教授が保存の必要を訴えました。講演会終了後、約百人が現地見学に参加しました。
まほろばガイドの会が田和山保存に決起
3月20日お彼岸の日、午前の講演会、午後の田和山祭りと、さながら「田和山でー」の盛り上がりを見せた田和山遺跡保存を目指す運動は、出雲風土記の丘で活動する「まほろばガイドの会」(中沢四郎会長)が、会員全員の意思で田和山遺跡保存要望を決定し、「田和山をたのしむ会」に参加したことで、新しい展開を示すことになりました。
「まほろばガイドの会」は、早速松江観光協会(皆美健夫会長)に、「観光資源としての田和山保存について」陳情書を提出しました。
まほろばガイドの会を加えて「田和山人垣4・15(よいご)縁」(人間の鎖運動)相談会は、「田和山はなまつりの会」として3月31日スタートしました。

(3月20日発信)
お彼岸、さながら「田和山デー」
講演会と田和山まつりに五百人が参加

 さる二十日春分の日、早朝六時の田和山山頂に人影が動いていました。
田和山をたのしむ会のスタッフが二人。申し合わせたわけではなかったのに、日の出前にばったり対面。お清めの塩を撒き、カメラを構えて御来光を待ちます。前日の雨はきれいに晴れ上がりました。
 青少年館、午前九時この地方のひな祭り菓子「イガ餅」作りの女性グループは既に作業に入っています。田和山まつりを推進する「たのしむ会」の責任者たちが顔をそろえ、打ち合わせ開始。
 午前一〇時青少年館大ホールで、田和山遺跡を考える会主催「出雲の聖地田和山遺跡こうすれば残せる」講演会が、満席の約七〇人の参加で開会。
 講演に立った島根大学林正久教授は、OHPを使って縄文期からの松江の地形・地質を説明。田和山は、当時離島であった島根半島に囲まれた内海の海岸に突き出た山地の一部段丘であったと説明。弥生期にかけての周辺の土地利用の特徴と田和山遺跡成立の意義を語りました。
 荒神谷遺跡公園を設計した景観設計研究所(大阪)生田淳一氏は、遺跡公園の豊富な設計経験を披露しながら、田和山を歴史体験型史跡公園として保存し竪穴従居を模して宿泊体験施設などを提唱しました。環壕は特別の植生土嚢で覆土して保存、一部を完全復元展示することを提案しました。
 午後一時半田和山では、美保神社に奉仕する巫女と弥生衣装の一団を先頭に参加者が山頂に向かいました。環壕を埋めた参加者の前で山上の聖地に巫女舞がささげられ、笛など優雅な音曲が演奏されました。
 山麓では野菜市にフリーマーケットが開店、「イガ餅」弥生赤米おにぎり、豚汁、甘酒などが振舞われ、田和山一号古墳は「野点茶席」の舞台に転身。
 家族づれ含め五百人の参加で、賑わいが続きました。

(3月11日発信)

「田和山をたのしむ会」が発足
さる3月4日、「田和山を見る女性たちの会(加藤尚子代表)」のよびかけで「弥生田和山まつり」の相談会が開かれました。よびかけに応えて参集したのは、風土記を語る会川島芙美子、島根考古学会松本岩雄、田和山遺跡を考える会田中義昭の各氏など10人。
全員の総意で、「田和山をたのしむ会」を結成し、「なくなるかもしれない田和山とのお別れ会=田和山まつり」を、3月20日開催することを決めました。4月始め頃には、田和山を囲む人垣=人間の鎖も視野においています。
田和山まつりは、20日午後1時開始。山頂では巫女舞、土笛・フルート、凧上げ。駐車場ではいも鍋・お握りなどが振舞われます。問い合わせは電話27−1107.
聖地・田和山遺跡 こうすれば残せる「講演会」
松江市長は、田和山は土質が悪くて保存できないなどと言っていますが、2千年永らえてきた遺跡を現代の知恵でよみがえらせることは出来ない相談でしょうか。地形・地質、保存技術の専門家の提言を聞いてください。
講演「田和山の地形・地質と周辺の地理」島根大学教授林 正久氏
講演「田和山遺跡はこうして保存活用する」景観設計研究所主任研究員生田淳一氏
開催日時 3月20日 午前10時
開催場所 島根青少年館(電話21−2818)
主催 田和山遺跡を考える会(電話24−7350)
講演会終了後、田和山まつりに合流しましょう。

(00年3月11日発信)

田和山出土の「大陸系磨製石器」に注目
出雲市教育委員会坂本豊治主事は、要旨次のような論考を3月5日付山陰中央新報に寄せました。
松江市の田和山遺跡は全国に類例のない三重の環壕として有名になった遺跡である。環壕や建物跡の遺構からみた議論はかなり進んでいるが、出土遺物の詳細な検討はまだ調査が完全に終了していないこともあって、殆どなされていない。
田和山遺跡からは大陸系磨製石器という弥生時代を代表する石器群が出土している。大陸系磨製石器とは、縄文時代晩期後半に朝鮮半島から稲作文化と同時に北部九州から伝わった石器群である。それらは、石包丁・大型石包丁・石鎌の農具、伐採石斧・加工石斧の工具、磨製石鏃・磨製石剣の祭具に大別できる。これらは、弥生人の生活に欠かせない必要な道具であり、生活の実態を解明し、弥生人の精神文化を知る手がかりとなる貴重な遺物である。
大陸系磨製石器が山陰に出現するのは弥生前期後半で、北部九州‐東北部九州を伝わってきたことが分かっている。前期には九州〜日本海沿岸地方の文化伝播ルートが形成されていたことや、山陰地方は九州とつながりが強かったことがこの石器群から言える。
田和山遺跡では弥生時代前期末〜中期初頭と中期の石器が出土している。弥生中期には山陰にも松江市西川津遺跡などに大陸系の鉄器が入ってきているが、かなり貴重品で量的にも少なく、田和山遺跡では石を素材とした道具が主流であったことがわかる。
田和山遺跡出土の代表的な大陸系磨製石器は、伐採石斧、加工石斧(扁平片刃石斧・柱状片刃石斧)で、これらの石器は日常的な生活道具である。
武器型石器としては磨製石剣と石鏃が出土している。磨製石剣は、銅剣を模倣した石剣と、それとは系譜が違う2種の石剣が出土している。銅剣は祭器として使われたものであるので、それをまねた石剣も祭器であり武器ではない。
石鏃は90点も出土している。石鏃は縄文時代には狩猟具であったが、弥生時代になると武器にすりかわるという大きな考古学研究の問題点を含んでいるので、評価は難しい。
弥生時代に実際に武器として使われた道具について、再検討が必要になるであろう。
石器から見た田和山遺跡は、生活跡を強く感じさせ、磨製石剣を使って祭りをしていたことがわかる。
磨製石剣を持っている田和山遺跡は大集落の一部であることを感じさせる重要な遺跡である。
田和山遺跡の評価は、まだ明らかにされていない多くの出土遺物からも進めていくべきである。

('00年2月7日)環濠の発見で県市に要請
慎重な調査と「県市協議」を約束

 松江市教委は1月28日「田和山遺跡群の丘陵のうち、南側丘陵の北斜面から、環壕らしきものが確認されたので、現在調査中。規模については、長さ約24b、幅約2b、深さ約1b程度」と発表しました。
 翌日の新聞は、「田和山遺跡、「何もない」場所に環壕。市の調査ずさん、批判の声出る」(朝日新聞)。「田和山遺跡、環壕の続き?発見。調査不足との声も」(中国新聞)と大きく報道しました。
 県教委は、新たな環壕発見について、2月4日までに市教委にたいし、「市立病院用地造成が本格着工する前に、南側丘陵部全体を洗いなおすよう指導した」と山陰中央新報が報道しました。
 田和山遺跡を考える会では、田中義昭代表委員など3名が、7日県市教委を訪ね、「調査もれが再三発覚するのは、記録保存に馴染まない証拠」と指摘。慎重な調査と現状保存を重ねて要請しました。
 県教委勝部文化財課長は、「新たな環壕発見で、慎重な調査を指導した」ことを確認しました。また、市教委神田副教育長は、「調査について現地で県市協議をする」と回答しました。
 市教委は「協議」に臨む市のスタンスは記録保存に変わりはないとしていますが、調査方針は協議によって決まるとも発言。
 田中代表委員らは、遺跡の記録保存を現状保存へ方針転換するチャンスと指摘。神田副教育長も「要請の趣旨は分かりました」と答えました。

田和山守る「人間の鎖を」

 NHK衛星放送「山上の聖地」ビデオを見る会で、「田和山を見る女性の会」(連絡先加藤尚子さん電話0852−27−1107)が結成され、毎週土・日曜に現地見学実施を呼びかけています。
 2月10日の見学会では「月末頃に田和山を守る人間の鎖を」との提案もあり、田和山遺跡を考える会も全面協力を表明しています。

('00年1月14日発信) シンポ「田和山は生きている」盛況
古代出雲を考えよう実行委員会(今岡稔委員長)主催のシンポジウム「田和山は生きている」が1月9日島根県民会館中ホールで開催され、市民・学生など六〇〇人が参加しました。
 大塚初重明治大学名誉教授は、田和山祭祀が終焉した弥生時代中期後半に、大量の銅剣や銅鐸などの青銅器が神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡に埋納され、同時に四隅突出方墳丘墓が出雲に出現したことに注目、「田和山は四隅突出墓や方墳、前方後方墳世界に、出雲世界がどのように動いていくのかを示すきわめて重要な第一級の遺跡だ。」と力をこめ講演しました。
 シンポジウムでは、大塚氏の司会で、俳優の刈谷俊介、九州大学西谷正教授、奈良女子大学広瀬和雄教授がこもごも発言、「田和山遺跡は古代出雲の宝物」と訴えました。
代表が上京し文化庁に要請
 シンポジウムの成果を受けて、田和山遺跡を考える会代表委員田中義昭島根大学元教授、シンポジウム今岡稔実行委員長など三名が上京、妻木・晩田山の遺跡保存連絡会、文化財保存全国協議会の代表とともに、中林佳子衆議院議員の紹介で、文化庁に陳情しました。
 文化庁側は、文化財保護部記念物課里見朋香課長補佐・坂井秀弥調査官が応対しました.
 陳情団は、松江市教育委員会による田和山発掘調査は、文化庁が示している発掘調査フロー図を無視し、「重要遺跡発見」手続きを踏んでいないと具体的に指摘し、文化庁の指導によって是正させるよう求めました。
 里見課長補佐は、「事実を調査し、市教委に事情を聞く」と述べるにとどまりました。
 陳情団は翌一三日衆議院議員会館中林議員室で、自治省地方債課鈴木稔郎企画係長と面会、松江市が田和山を再取得する際の財源とした都市環境緑地債について事情を聞きました。
 陳情に参加した田和山遺跡を考える会加藤暁事務局長は、「田和山遺跡保存要求署名は一万を突破、シンポの成功で世論は遺跡保存に大きく動いており、あと一息で勝利の展望も開けます.」と話しています。

(2000年1月9日発信)
オーストラリア発宮岡松江市長殿
田和山遺跡の現状保存を要望

オーストラリアの作家ロロ・ハウバイン氏が昨年末松江市長宛に書簡を送り、田和山遺跡の現状保存を訴えていたことが、ロロ・ハウバイン氏から氏の友人池田恵子さん(松江市上乃木)への便りでわかりました。池田さんの御好意で下記に掲載します。
「松江市長 宮岡寿雄殿
 日本の友人たちから、紀元前3世紀頃まで遡る田和山遺跡という素晴らしい遺跡があなたの市から発見されたと聞きました。その発掘の前途については異なる意見があることは理解できます。そこで、この信じ難い発見物を見に私達が日本に着くまで時は待ってくれるかどうかと今懸念しています。その山や遺跡は周辺の遺跡や美しい銅鐸その他の発掘遺物との関係もあるように理解しています。
 私は、オーストラリアで考古学の仕事に参画するという光栄を持ったりもしましたが、多分御存知のように、この大陸ではあなた方の地方で発見される遺跡・遺構のような壮大なものは何も出てきません。その点では、松江のようなところでは、もし保存されたなら、考古学者、旅行者、観光客、学生などが、古代人がいかに生きたのかの証を見るために集まってくることは必至です。
現代の生活は過去からの情報がなければ、必要な広がりを欠くことになります。そして過去というものは、掘り出されそれが尊敬の念をもって取り扱われるという幸運に巡り会った時に初めて、現存の遺物・遺構にも命が与えられるということになってくるのです。ですから私は、あなたに幸運な発見物にたいし祝意を表したいと思いますとともに、何万人もの興味を抱いた旅行者達が、この特異な山の壮麗な遺跡と島根の考古学的遺跡のより広大な諸形式の関連についての熟慮をしたりする楽しさを享受するために、地方の住民に加わったりも出来るように、あなたがそれらをいつまでも保存してくださることを願っています。
敬具
ロロ・ハウバイン」
松江市長がどう答えたのか、わかり次第お知らせします。
ロロ・ハウバイン氏の住所は下記の通りです.
Lolo . J . G . Houbein
P.O.Box 664
STRATHALBYN S . A .5255
Australia

(99年12月15日発信)松江市文化財保護審議会開く
松江市教委は、11月末で田和山遺跡の調査が終了したとして、12月14日松江市文化財保護審議会を開き、現地説明の後最終報告をしました。「記録保存もやむをえない」とした市教委にたいし、委員の中から批判の声が相次ぎました。審議会では、岡崎雄二郎文化財室長が、発掘調査の経過を報告。蓮岡県文化財審議委員は、「非常に特異な遺跡と感じた。祭祀に関連する遺跡ではないか。三重の環濠で何を守ろうとしたのか。妻木・晩田遺跡より一味違う出雲を象徴する遺跡ではないか。」と強調。「まず開発ありきではなく、事前の発掘調査の意味合いも十分に理解してほしい。」と市の姿勢を批判しました。藤岡大拙島根女子短大学長は、「大規模な公共事業の場合は十分な現地調査をしておかないと、今後もこういう事が起こる。松江市自然学習の森としていた土地が何故開発の対象になったのか実に不可思議、誰に聞いても分からない。」と疑問を語りました。渡辺貞幸島大教授は「山陰の弥生時代研究は日本の最先端をいっている。田和山は考古学者だけでなく市民も非常に関心を寄せている。市はもうひとふんばり現状保存に努力できないのか。」と主張しました。
文化財保護審議会は結論をまとめず終了し、市教委は15日にも県教委に発掘調査の終了を報告します。

(99年11月1日発信)第3回現地説明会
松江市教委は第3回目の現地説明会10月31日(日)午前・午後の2回開催しました。発表が26日と遅れたためか参加者は少なく、午前午後合わせても百人余りでした。田和山遺跡を考える会では、田中代表夫妻始め20人余が参加し、保存要望署名を集め、びらを配るなどで、一般参加者に呼びかけていました。
当日松江市教育委員会が配布した「第3回現地説明会資料」は次ぎの通りです。
1、平成11年度の調査
環壕(K、L区)の追加調査
K、L区の第2、第3環壕を調査し、全体の8割を明らかにしました。あとの2割は、東側の谷部分で、弥生時代から既に崩壊を繰り返していたため不明確でした。北側でも地すべりの痕跡がうかがえます。環壕内出土のつぶて石はK区の第2環壕でたくさん見つかり、3本の環壕全体では現在およそ2800個(前回1000個以上9を数えています。石鏃も多く現在150個近く(前回88個)を確認しています。サヌカイト製(分析結果からすべて香川県金山産のもの)が約6割、隠岐の黒曜石製のものが約4割を占めます。注:前回とは、平成10年9月6日第2回現地説明会時点。
環濠外側の住居跡群(F,G,H,I,J区)の調査
F区ー丘陵斜面を切り崩して平らにし、排水溝を設けた掘っ立て柱の細長い建物が4軒ありました。弥生時代中期頃のもので、台形土器、甕形土器、石鏃(黒曜石、サヌカイト)、大型包丁、黒曜石の原石が出土しました。
G〜I区ー弥生時代中期の竪穴円形住居跡11軒、同時代の加工段(掘立て柱建物跡か)7ヶ所、古墳時代中期の竪穴方形住居跡3軒、獣の落とし穴1ヶ所(時期不明)、小柱穴群1ヶ所、貼り石遺構1ヶ所が集中して見つかりました。弥生時代の遺物としては、各種土器、石鏃(黒曜石、サヌカイト)、黒曜石の原石、砥石が出土しました。弥生時代の住居跡から砥石がみつかったことから、この頃田和山遺跡でも鉄器の使われていた可能性も出てきました。
J区−平安後期〜中世の頃の掘立て柱建物跡1〜2軒と遺物散布地1ヶ所があり調査中です。
田和山東側水田の調査
平成11年1月、幅5m,総延長228mの3本のトレンチを設けて調査しましたが、古墳時代頃と思われる土器の小片が2個出土したのみで、遺構はありませんでした。全体的にきれいな砂とシルト土層が分厚く堆積しており、忌部川の氾濫で埋まったものと考えられます。湧水も著しく大昔から住むには適さなかったようです。
南部丘陵の調査
E区−環壕が南部丘陵にもまわっているのではないかという推測の基づき、トレンチ調査をしましたが、確認で来ませんでした。
T1〜T5トレンチ−環壕北側の斜面で確認された住居跡群が、同じレベルで南部丘陵にもあるかも知れないという推測に基づき、調査しましたが、確たる遺構はなく古墳時代後期の須恵器や土器片が僅かに出土しただけです。
2、発掘調査のまとめ
これまでの調査結果から、環壕の内側には人が日常的に暮らしていた形跡は全くなく、逆に環壕の外側から数多くの住居祉や加工段が確認されました。弥生時代中期後半の竪穴住居祉はC遺跡を含めると12軒、加工段11ヶ所を数えます。さらにその大半は北側斜面に集中していることと、時期が限定されていることが注目されます。環壕もおなじ中期後半の頃に三重に巡らされ防御線が最大限まで強化されたことを考えますと、来るべきいくさを目前に控えてまず環壕の外側で防御しようと臨戦体制を整えるため(見張りや環壕の整備管理も含め)前線部隊が平素の住居から急きょ移り住み、黒曜石の石鏃を作るなどしていたのではないでしょうか。或いは、政治的緊張関係が増した弥生時代中期の頃に三重の環壕を造成整備せんがために近隣の集落から駆り出された人たちの住居であったかもしれません。

田和山は弥生期出雲の心臓の存在
田和山遺跡見学・講演会が盛況

 (99年9月20日発信)松江市・田和山遺跡を考える会(田中義昭元島大教授が代表委員)は9月19日、第3回目の現地見学会を開催し、県外からの参加を含め約百人が参加しました。
 田和山遺跡では、島根考古学会などの要求で山腹から山裾部分の追加調査が進行中で、巨大な三重の環壕が全容を現したことから、見学会と講演会があらためて開催されたものです。
 田和山に登った参加者は、田中代表委員の説明を受けて三重の環壕を巡り、景観に恵まれた山頂の「神殿」跡に立ち弥生時代の出雲に想いを馳せ、「田和山の南半部が保存されるのに北半部が破壊されるのは何故でしょうか。」「宮岡市長は、病院本館の屋上に立てば、田和山の景観はそっくり残っていると答弁したそうだ。」「市立病院跡地は都市型ホテルを誘致するそうだ。」など語り合っていました。
 見学会後島根青少年館で開かれた講演会では、岡山大学松木武彦助教授が、「弥生時代の戦と田和山遺跡」と題し、要旨次のように新しい見解も交えて講演し、注目されました。
 「高地に所在する祭祀遺跡で環壕を巡らせた例はまだ見つかっていないが、香川県の飯野山(讃岐富士)と白山では、山頂で弥生中期の祭祀土器がみつかっており、今後もし環壕などが発見されれば、田和山タイプの祭祀遺跡への認識は深まるだろう。
 田和山、加茂・岩倉、神庭・荒神谷など、出雲を代表する弥生遺跡に共通するのは、出雲弥生人の「暮らしの痕跡」を見つけられないこと、遺跡が独自の神秘性を持っている点と考えられる。田和山はマージナル(注)な遺跡だ。
 田和山で戦った「戦士」の墓といわれる友田遺跡でも、副葬品の鏃と玉に、戦と祭祀が象徴されていないか。
 田和山は、出雲の神聖な心臓とも言うべき遺跡ではないか。破壊など論外の暴挙だ。」
 なお、田和山保存住民訴訟の松江地裁での次回公判は、10月6日午前10時。原告の遺跡鑑定申請に裁判所の判断が出る予定です。
 (注、マージナルとは、margin:Border,strip near the edge of somethingの形容詞で、境界の、限界の、との意味です。松木先生がマージナルとおっしゃったのは、出雲の歴史の最古の限界部分、或いは、大和文化と九州文化との出雲のふれあいにおける限界・境界部分との意味をこめられたと思います。)

 (99年9月6日発信)99年4月からの松江市教委による追加調査により、未発掘だった田和山北から東斜面の環濠が姿を現しました。9月5日には、住民による自主的な見学会が、古代史ファンクラブ(恩田都温代表)主催、田和山遺跡を考える会の協力で開催され、報道陣も含め約百人が参加しました。
 田和山遺跡を考える会は、市教委に対し追加調査分の現地見学会を9月26日に開催するよう申し入れていました。市教委岡崎文化財室長は、9月では準備できないので10月にしてほしいといっています。田和山遺跡を考える会では、この見学会参加を全国に呼びかけ、「完全な姿で発掘された唯一の三重環壕遺跡」を出来るだけ多くの人に見てもらい、保存運動の力にしたいと考えています。
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