江戸へ続く"城下の道"-近世の町の道

原形が見える-浜田城を中心とした町づくりの道TUを見る

浜田城下町下絵図(部分)資料1浅野氏寄贈-浜田市蔵 周防守時代

ふるさと歴史紀行の会による報告を参考(再構成) 文責(五月の緑)



浜田の町がいつどのように形成されたか、それは項を分けて考察したい。
明治以後、人馬、馬車から鉄道、自動車へと道の用途も目的も大きく変化を遂げた。私達が今生活の道として親しんでいる新しい道もある。
けれども、現在の街や道は江戸時代の初期、浜田城の城下町として設計されたものだと言える。
当時の町の道を歩いて見れば浜田の町の生い立ちがわかる。
【一、浜田城と浜田八町】
 《浜田城の藩主》

 浜田城は1620(元和6)年に、初代の浜田藩主・吉田重治が築城したと記録にある。 織豊時代亀山には、もともと吉川元春(=毛利氏)の次男吉川元氏(もとうじ)が石見在番として陣屋を構えていたとされるが、1600(慶長5)年の関ヶ原で徳川家康が勝利し、 その所領が全て没収となった。改めて伊勢国(三重県)松坂より5万4千石で古田重治候が入部してきた。 1619(元和5)年城を作る場所の選定にあたって益田・三隅・周布など中世以来の武士団の居城・居館を検分した結果、浜田の亀山に決められた。 江戸時代以前の浜田の様子はほとんど明らかにされていない。 1562(永禄5)年の明の文献(1)に「番馬塔(はまだ)」とあり、 1443-1444(嘉吉4)年の「大般若経奥書」(宝福寺)に「那賀郡小石見郷濱田村」として見えることからすでに港町が形成されていたことがわかる。 また、浜田城以前に中世の城郭が存在し、近世の町の基礎となる集落の活動があった可能性も考えうる。 古田家は、二代の重恒が家老らを斬り殺した事件(古田事件)があり、世継もなく二代で1648(正保5)年断絶。
 そのあと一時直轄となった後、1649(慶安2)年、播磨国宍栗(山崎)より家康の孫とも言われる松平周防守康映(やすてる)が五万四百石で入封。 松平周防守家が、五代110年間ほど続いたが、幕閣参画などにより、下総国古河へ移封。後三河国岡崎へ転封。
 代わりに1759(宝暦9)年、本多忠敞が入封するが、わずか三代10年間の治世で、三河国岡崎へ転封。
 本多候と交代、1769(明和6)年、老中職にあった先の松平周防守康福(やすよし)が再び移封され、四代続いたが、三代目康任(やすとう)は出石藩の仙石(お家)騒動に連座失脚。 最後の当主松平康爵(やすたか)は、密貿易事件が発覚し、(奥州)陸奥国棚倉へ転封された。
 その後1836(天保7)年、上野国館林から松平右近将監家が入封。この松平家の当主はすべて養子で、最後の浜田城主は、徳川家斉の十男で、徳川慶喜の弟にあたる武聡(たけあきら)で幕末を迎えた。

堀と川と海に囲まれたお城と武士達の町、堀の外の町人商人の町、広がる田畑。そこに先人達は暮らしていた。
道や川、溝の整備、田畑の開墾は村人達の労役になるものだった。ここでは、殿様が参勤交代に歩いただろう城下の道を辿ってみる。
亀山の御殿、中ノ門から大手門を出て、城下の境大橋を渡り、浅井川外の田町龍泉寺で旅支度をしたという。
山陰道、広島街道(参勤交代道)へ続く道を辿ってみる。
 《一石とは?》米、約150キログラム

浜田城下町方絵図(資料2俵 直一郎氏蔵)1771(明和8)年9月

 《左図》は市内にのこる唯一の町方絵図で、路地の名称や、溝に関る記載もあり、1771(明和8)年の溝見分時に使用された時の写しと考えられている。
※溝見分は、雨期の出水に備え町の溝手浚(さらえ)を藩役人が見回る事、毎年の事であったという(低湿地の為洪水が深刻)
 
《浜田城築城の裏話》
 古田候は1619(元和5)年8月に伊勢松坂を立ち、市木の御坂(三坂)峠を越えて浜田に入り、しばらく現元浜町にある極楽寺に宿陣した。(浜田鑑)
その時に松原の2名が出迎えに行っているが、「唐谷坂」を通ったのではないかとする見解もある。「唐谷坂石畳道」については、「浜田の街道」@を参照。
 その極楽寺に伝承がある。都野津にあった極楽寺の開山の上人「一魯大和尚」(生れは山城)は、古田候の命で築城候補地を見分したという。本堂、庫裏全てを浜田に移したとされる。(ただし、『濱田』の極楽寺縁起は、開祖不祥1576(天正4)年大伽藍建立とだけある。古田候は同寺の境内での魚市を許し、自らも競り(セリ)に参加したという。築城以後も漁師との交流があったともいう。

(浜田亀山城の築城秘話「亀山」18号,田村武俊)より
大正初年頃に描かれた想像図「浜田港」より
《浜田八町の成立》

城下町の形成は、当時既に発達していた港湾を活かして考えられた。
浜田浦と松原浦である。
城地を亀山とし、浜田川などの水路を整理し、東の三重山(観音山)と鏡山(丸山)、西の青の山の峡地を要害とし、浜田川以南に八町と言われる町を作った。 浜田川以北は武士達の住まいとした。

八町(城下町)とは

原町(原町,朝日町)
辻町(大辻町,天満町)
桧物屋町(京町,錦町)
門ヶ辻町(蛭子町,栄町)
蛭子(紺屋町,高田町)
紺屋(新町,港町)
新町(片庭町,瀬戸ヶ島町)
片庭(松原町,真光町)
※(内)は現在の町名、1954(昭和29)年大字を町に改めた
(注)川筋を色づけしたものです
天守閣のあった、亀山天頂部から、下って見る

本丸、左端が天守跡と想定される

一ノ門跡

 《くるわ内(丸の内)の形成》
亀山(鴨山)を城とし、堀と川によって、城内と城下町を分けた。
河原町(現田町)から松原湾に注いでいた浅井川を外堀として改修し、同じく松原、殿町の湿地帯辺りを流れていた水路を内堀とし、亀山西に注ぐ浜田川本流をその境として改修した。
堀と川と海に守られた地域を丸の内(くるわ内)とし、浜田川以南に庶民の町、浜田八町と呼ばれる城下町を形成した。
くるわ内は藩の役人、武士達の居住区とした。田町龍泉寺から鏡山以西、浜田川以北の現殿町、松原町である。この辺りは低湿地であり、たびたび水害にあったという。浅井川を現山本精肉店右に付け替え、浜田川に放流したのもその対策だった。(1873(明治6)年現在の位置に変更)(浜田川の付け替えには諸説ある)

櫓は無いが、枡形石積みが残る 《枡形虎口》

虎口(こぐち)とは(小口)出入り口の事。桝のような形からこう呼ばれる。まず第一に敵の直進進行を防止する役割を担った。ここで一時期立ち往生させておき、周りから弓矢、鉄砲等で集中攻撃を加える事ができる。
次に出撃、もしくは帰城時に兵士を待機させる「武者溜り」の機能。外門を閉じ、内門を開いて城兵を枡形に入れ、そして内門を閉じて外門を開き、出撃する。帰城するときはその逆を行うが、出撃時には隊形を整え、帰城時には不審者のチェック機能も果たしていた。

かなりの立派な石積みではないか

右手に中ノ門に下る道

焔硝蔵があったという現花見広場

司馬遼太郎の碑がある石積みは?

天守閣の謎(1)

浜田城石垣絵図資料3(長田 礼氏蔵)1813(文化10)年5月
《天守閣は落城時炎上したか》
浜田城の天守は長州軍と決戦の前に自ら火をかけ焼失したとの通説がある。1866(慶応2)年の事である。病床の若い藩主松平武聡(たけあきら)以下小数の家臣は井戸を装った抜け道を使って松原湾に脱出し、松江藩を頼って航行したという。その時自焼したというのがそれである。だが、落城時には天守は残っていたとする有力な資料もある。
右近将監家時代

護国神社と花見広場の間にある道

登城後ここから中門大手門に下

石見国亀山城(資料4浄泉寺蔵)額裏に1862(文久2)年の貼紙あり

道の痕跡があり、石積みが残る

下を見る

石州浜田城(資料5中根 忠之氏蔵)不正確と言うが手がかり
右近将監家時代の

天守閣の謎(2)

井戸があったという中ノ門の手前

この石垣の上に左に向かって櫓門

《長州軍、「前原一誠伝」の中の報告文》
1934(昭和9)年発行の前原一誠伝に山田右衛門の報告文がある。以下、読み下してみる。「…浜田城も二の廓三の廓とは焼失、けれども本丸(天守)は焼けなかったので我が兵は本丸に入り起居しているとのこと。…現在では江川を境界にして我が兵が其処まで進出、川を挟んで両軍対立、陣地を作り砲八門を備えて此処を守備の場所と定めている。」とある。起居しているとあるのだから、当然天守閣は残っていたと思われる。他にも残ったという傍証はいくつかあるし、焼失したという証拠はない。では、いつ消失したか。1873(明治6)年に城郭破却令が出され多くの天守閣が解体されたというが、浜田城については何の記録も伝承もない。1903(明治36)年、本丸跡に陸軍が忠魂碑を完成させている。その時にそこにあった倒壊物を取り去り、一部を西側の斜面に捨てた、との土山 斉氏(大橋側古書小鳥商)の証言(注1)もある。つまり、その時には既に倒壊していたという事である。したがって推測ではあるが、1872(明治5)年の浜田地震でその勇姿を失ったのではないだろうか、と考えうる。つい先月その付近からシャチホコの一部と思われる焼き物が見付かった。(市教委届済)

中ノ門城壁の内側

右上に登る護国神社参道を見る

【二、中ノ門から大手門、大橋口への道】
おそらく、中下級の武士達以下は一旦登城し、装束を整えて大手門を出たと思われる。藩主は、現税務署辺りにあったと思われる「御殿」あるいは、現ニューキャッスルホテル付近の「南御殿」で合流したと思われる。現図書館前付近の大手橋を渡り、現ニューキャッスルホテル前で隊列を整え大橋門に向かった。大手門は、幅約29メートルの大手橋を持つ内堀の内にあった。櫓(矢倉)を有す高麗門(門支柱の外側にも屋根を持つ)だったとある。大手橋は、板橋であったという。約29メートルの立派な橋と思われる。城主を加え、隊列を整えながら大橋口に向かった。大橋門を渡れば城外=曲輪の外ということになる。田町口(龍泉寺)迄の市中パレードだ。

石垣の上に櫓があった

左手前に向かって石垣が続いていた

中ノ門(石見国亀山城 部分)

右上から下りてきて左に抜ける

標柱は1M、立派な石垣だ

ここを訪れる人はほとんどいない

すぐ近所に民家がある為防石ネット

護国神社参道からも見えるが

《中ノ門》

渡門(多門造り)=塁上に長屋作りの建物を持つ
本丸迄 長さ百二十間(141.816M) 横五間(5.909M)
三間に九間(3.5454M×10.6362M)
門桝形石垣(注1) 高さ四間(4.7272M) 枡形 三間四方(3.5454M×)
中ノ門の続き多門 長さ一五間(5.909M)

(城地目録より)
一間=約1.818M(一町=約109M≠フ60分の1)で計算した

民家の裏庭になっている

愛宕山、旗竿山方向を見る

右側の家の向こうに中ノ門跡はある

中ノ門を出て左に折れると裏門跡

裏門絵図(石見国亀山城 部分)

地図@浜田城平面図

右の石積みが残っている

内堀、葦沼だった所から見た裏門跡

《裏門》

冠木門-かぶき=左右支柱上部に梁
 (搦手門)-からめて=裏
と、だけ記載

(城地目録より)


《改易になった古田家家臣は裏門を出て行った》

 初代藩主古田重治の後を継いだ古田重恒は重臣を切り殺すという「古田事件」を起こし、さらに世継ぎがなかったこともあって、1648(正保5=慶安元)年お家は断絶。一時、備後国三次浅野因幡守長治、津和野藩亀井能登守茲政を在番とし幕府直轄となった。
 両家の家臣が浜田城入ったおり、古田家の家臣はこの裏門から退いた、と伝わっている。
 又、古田家の家族は亀井家の家老多胡久右衛門に引き渡された。

(浜田鑑 藤井宗雄著)

松原湾から城山を見る

弁天川口、海抜1メートル程の松原

右松原湾は湿地帯で、浅井川河口だった

中ノ門を出たら正面民家が道

左に少し下って長屋の先を行く

参考文献
「亀山」11号 【ふるさと浜田市の成立】森 八太
「亀山」14号 【くるわ内の今昔-城下町の形成】神山典之
「亀山」22号 【浜田八町の成立ち】神山典之
「亀山」18号 【浜田亀山城築城秘話】田村武俊
         【浜田城天守閣の行方】山本英雄
「浜田会誌」2号 【城地目録】
「浜田鑑」 藤井宗雄
【浜田藩主 参勤の巻】森 八太
島根県教育委員会 【歴史の道】H
浜田市教育委員会【松平周防の守家の成立と浜田】(こども美術館)
史跡探訪会【浜田の歴史と伝承】創刊号

この向う更に左に下ると大手に出る

護国神社参道口左下が大手門

約29Mの内堀に架かる大手橋(板橋)と大手門

現図書館前付近の大手門跡(石垣)

旧中村整形から見た内堀(幅29M)

《大手門》
冠木門(高麗門らしい)
中ノ門迄長さ 百二十間(218.16M) 横五間(9.09M)

《(内)堀》
廻り長さ 百三十間(236.34M) 幅十六間(29.088M)、
 幅南の方十六間(29.088M)
 北の方二十一間(38.178M)
深さ水下九尺(2.727M) 所に寄り浅深不同

(城地目録より)

ニューキャッスルホテル前まであった内堀

この狭い路地も当時の名残

ほぼ石神社からまっすぐ

現公民館前舗道の位置が当時の道

大橋はこの辺りかと思われる

《天守と御殿》

「御殿」は城の一構成要素であり、実際に城主が生活をした建物の事。
「城=天守閣」と、考えがちだが、天守には戦争の時以外には物見に使うだけだったと思われる。
「御殿」はどこにあったか?見た事がないと言われる程残っていない。唯一「高知城」の「御殿」が現存しているのみだ。
浜田城の「御殿」は、現在の税務署から九号線の辺りにあったと思われる。ニューキャッスルホテルの場所は「南御殿」と言われている。
どちらも内堀の中、大手門を入って左側にあったらしい。

大橋門付近(鳥瞰絵図部分)

(浜田城下町絵図部分)

《大橋口》
大橋北詰には町奉行所があり、馬溜まりのある柵門があったという。
板橋。南詰の新町(寛文2)には銀札場があった。橋を渡った所には札場があり、触れ書きを張り出していた。現在の桜の馬場駐車場付近は河原であり馬場であった。



地図A 道分山、万灯山も見える、1969(昭和44)〜後半か?(筆者 蔵)

2002.5.27
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