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「三ノ宮」神社 |
後ろは三子山 |
浜田市文化財愛護会による報告(全文) 文責(桑原 彰) |
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【一、唐谷坂道は何処にあるのか】 | ||
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相生町の三宮神社前の国道一八六号線を通り、上三宮橋を渡らず道端の馬頭観音堂を右に見ながら県道一七九号(黒沢安城浜田線)道路を行く。 しばらく行くと右に「坊河内屋敷」が在ったが、崩壊した為に取り片付けられてしまい、江戸時代の風情を残す建物がまたも姿を消した。 川向こう(浜田川)には中世から近世にかけて小石見郷の豪族だった岡本氏の屋敷跡(土居原)があったが、やはりダムの工事で姿を変えている。 |
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| 三ノ宮の大銀杏(00.12.16伐採) | ||||
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「三ノ宮」の裏山には三つ子山城跡が残っている。岡本氏の本拠城。他に「坊河内砦」「潰砦」「善福寺砦(仮)」などが確認されている。大銀杏のあった「三ノ宮神社「の向こうに県道186号と浜田川を挟んで「正連寺山」がある。南北朝時代には「山城」があった。地元の古老は「城山」と伝え聞いている。岡本氏は宮方であった三隅氏と共に武家方と戦ったとされている。 |
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(七条へ抜ける)唐谷坂道への入口 |
小石見郷(土居原)あたり |
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相生町の三宮神社前の国道一八六号線を通り、上三宮橋を渡らず道端の馬頭観音堂を右に見ながら県道一七九号(黒沢安城浜田線)道路を行く。 しばらく行くと右に「坊河内屋敷」が在ったが、崩壊した為に取り片付けられてしまい、江戸時代の風情を残す建物がまたも姿を消した。 川向こう(浜田川)には中世から近世にかけて小石見郷の豪族だった岡本氏の屋敷跡(土居原)があったが、やはりダムの工事で姿を変えている。 |
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道筋の畑にある地蔵 |
手前にドビンさんの鳥居があった |
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河内橋で浜田川を渡り山根原に向かい、高野俊明氏宅の下手へ着く。高野宅の近くにはかつて木造の鳥居が建っていたが大分前に倒れた。その鳥居は光徳大明神の鳥居だったと思われる。 | ||
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沢の左側を登る |
(左の写真)砂防ダムが見える |
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唐谷坂道は高野宅の裏から砂防ダムのある沢に沿って登って行く。この谷は昭和五十八年六十年に大水害が発生したため砂防ダムが二つ出来た。最初の砂防ダムの横には地蔵堂があり、大小三体の地蔵がある。一番大きい地蔵の台座には「文政十年亥八月吉日」(一八二七)と刻まれている。この地蔵は唐谷坂のどこかにあったのを里近くに下ろしたのではないかと云われているが、今では詳しく知る人がいなくなってしまった。この谷は字「アメフリ谷」と言う。 昔の道は二番目の砂防ダムの左の山裾を通っていたが、ダムの建設に伴い現在は右の山裾に付け替えられている。 |
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沢の右側にでると川石道 |
田圃跡の石積み | |||
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姉山観音の石碑 |
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アメフリ谷を登ったところには昔田圃が多くあった。田圃の向こうにはかつて「宗近」(屋号を姉山)宅が在り、その旧道の道端にあったらしい姉山観音の石碑が、現在の道端に移してある。 田圃跡を左に見ながら「菅峠(すげんたお)」に向かう。この辺りから坂道は急になり小石を敷いた石畳道が始まる。約百メートル程の短い坂ではあるが。角のない丸形の石を敷き詰めてある。川石を敷いてあるのは坂の土が粘土質で滑りやすく危なかったからだろう。この石を浜田川から運んだことの苦労が思いやられた。 |
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川石の石畳 |
下の茶屋 | |||
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最初の石畳道を登り切ると峠家と呼ばれていた廃屋の前へでる。この家は昔「下の茶店」と呼ばれていた。 なお『那賀郡誌』によれば、唐谷坂道は元々河内の浜田川発電所付近から峠家付近へ登っていたものを、高野俊明氏宅から登る現在のルートに付け替えたと書かれているが、不明な点もあり確かめる事ができない。 |
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『鯉塚新右衛門墓』 |
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峠の家の隣に『鯉塚新右衛門墓』と刻まれた大きな石碑(高さ約二メートル幅約五〇センチ)が建てられている。碑には右に「元治二乙丑年」(一八六五)、左には「正月仏誕生日建立」と刻まれている。那賀郡誌によれば鯉塚新右衛門は唐谷坂を改修した人と伝えられており、河内の高野七右衛門がその高徳を讃えてこの墓を建てたと書かれている。また新右衛門の時に後野を経由する道を廃し、小笹村(金城町)へ出る新道に改められたともある。 唐谷坂が改修されるまでは何処を通っていたのか、これから先に現れる長い石畳道のような大工事を鯉塚新右衛門だけの発案で出来たのか、色々な疑問の起きる人物ではある。 |
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炭窯跡 |
炭窯跡の向うに右に登る道がある |
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峠家の前を過ぎると左に炭窯跡があり、そこから法徳山の尾根(一八二メートル)へ通じる坂道がある。道端には『ホートク社界』と刻まれた赤い標柱がある。ホートク社とは大正九年に石見村の村有林を借りて作られた「黒川村報徳社」(二宮報徳社とも云われた)という団体のことで、その土地境界を表した標柱である。報徳社はこの山に植林をして学校を建てる材料にしたり、売って資金を提供するなど地域の役にたつ事を目的とした団体であった。一八二メートルの尾根から道無き尾根をさらに法徳山へ向かって登ると一九五メートルの尾根にでる。この場所には切石のような今すぐ役に立つほどの形をした四〜五〇センチから一メートルの矩形的な石が多く露出していた。これは石英流紋岩といわれる石らしい。 | ||
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土留めをした跡 |
字「マツカ平」 |
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峠家の前を過ぎてしばらくは字「マツカ平」と言われる平坦な道となるが、この道を作るにも苦労したらしく雨で崩れぬように各所に石垣を築いて土留めをした跡が残っていた。 | ||
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字「石投げ地蔵」台座? |
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平坦な道を約五〇メートルも歩いて行くと道下と崖上にも低い雑木林が続くが此処は字「石投げ地蔵」と言われる所で、道の右側は大きな荷を背負った旅人が休むに丁度よいような方形の石があったり、山側には石片が山裾に多く散乱し、地蔵が置いてあったのかと思わすような石積み箇所もある。この辺りは石英流紋岩が多く露出していた一九五メートルの尾根の真下なので落石が多い危険な場所だったのだろう。 |
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落石の多い危険な場所? |
遠くに見えるは大麻山 |
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崩壊した箇所の石畳道 |
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石投げ地蔵の道を過ぎるとだんだん両方の山が迫り大きな谷に入るが、此処から唐谷坂道で最大の難関な大工事となった場所であろう、二百メートルもある長い石畳道が現れる。 昭和五八年六十年の大水害時にこの谷の石畳道はひどく崩壊してしまった。石垣は河内の方から登って来る側が幅約三メートル、長さ約四メートルも陥没しており、石の多くは水路となっている滝下に落ちてしまっている。向こうの石畳道に辿り着くには山裾の崖を辿るしかない。これは谷の水路(道の左側全面に沿って作られている)に多くの石が転がり落ちて来て倒木や土砂とともに流れ、道下に作られた水門の入り口を塞いでしまったからであった。 |
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