西石見路"近世の山陰道"-城下から西への道

原形が見える-浜田八町を通る道T Uを見る

浜田城下絵図(資料1 長田 礼 氏 蔵)1737(元文2)年 (部分)

【一、はじめに】

 JR山陰線と呼ばれている鉄道が浜田まで開通したのは1921(大正10)年。その鉄道とほぼ平行して走っている国道九号線が現在の主要幹線道路である。 そして今、その道を徒歩で歩くことはほとんど無い。第一歩道が狭く(無いところもあり)危険である。 私達はこの道を自動車で走っていて見える風景しか知らない。浜田から東隣の下府へ出る神在坂しかり、浜田漁港から長浜や周布へ続く青川陸橋しかり。 町中でさえ狭く曲がりくねった道は敬遠しがちである。自動車の通交には不便だからだ。しかし、道はもともと歩く為の道だった。 そう思って歩いてみると車窓で見るのとは違った風景が見えて来る。
 今回は浜田大橋から浜田八町(
左資料1下図D参照)と言われる町屋を通りぬけ青川の口番所を出て、長浜へ続く江戸時代の徒歩の道を辿ってみよう。 江戸へ続く参勤交代道のように本陣の記録がある訳ではないが、隣国へ向う主往還である。庶民や旅人の姿が浮かんで来るような気がする道である。
《江戸時代以前の山陰道》
 古代律令制下の山陰道と言えば、当時の行政区画であり、又そこを貫く官道をも指していた。 全国は五畿七道(図C)に分けられ、国、評、里(後には国、郡、郷)が置かれた。 国府には中央から国司が派遣され、地方の豪族は郡司とされた。 国分寺、国分尼寺が造られ、条里制がしかれた。戸籍と地図が作られ、人々と土地は国の直接統治となった。 全国は朝廷所在地周辺の畿内と七道に区分された。 畿内は大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国の5国で五畿と称し、他の諸国は東海道・東山道・山陽道・山陰道・ 北陸道・南海道・西海道の7道に区分され、同名の幹線道路でつないだ。 山陰道は都(藤原、平城、平安)から丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見(・隠岐=海路)を結ぶものであった。その駅として六ヶ所が記録にある。 波袮(はね)・詫農(たくの)・樟道(くすち)・江東・江西・伊甘(いかみ)である。浜田市国府町という地名の残る場所に伊甘の駅が比定されている。 長門まで海岸線に沿って進み南西の方に下って山陽道と合流し下関・太宰府まで結ばれいてたと推測されている。
 やがて律令制は崩れ、武士達の土地所有の時代になると山陰道が指す道のルートも位置づけも変って来る事になる。 長門周防に大内氏の出現を見れば、石見から津和野に入り長門周防へと向かう道が重要になって来る。 戦国大名の力関係や領地の線引きによって道はルートを変え、その重要度と性格が変って行った。
【二、山陰道とは】

 @近世には幕府の権力の下に再び中央集権が進み、主に参勤交代と、年貢(税金)の集配搬送の為に官道の整備が進められる事になった。 大大名の力を規制する目的もあり、全国的な街道の整備を進め、東海道・中仙道・甲州道・日光道・奥州道の五街道を、幕府の直轄下において、 道中奉行によって管理した。街道の城下町や小都市には宿駅がおかれ、一里塚、関所などを整備した。 これらは当地の領主領民の負担も大きかった。 江戸時代は封建体制として始まったが、各地方に配された大名には参勤交代や天下普請の負担が課され、次第に官僚化して行った。 農民達は土地に緊縛されたはいたが、街道の整備や武士達のサラリーマン化など商品経済の進展によってしだいに近世の終焉が準備された時代でもあった。 道も軍事的というより、政治、経済、そして文化的な役割がより増したのであった。

 A幕末になると山陰道が一挙に耳目を集める事になった。黒船に端を発する攘夷-開国論争が討幕に動き出すと、長州に隣接する津和野藩や、 浜田藩・松江藩などの幕府側に組する藩との緊張が高まった。ついに1866(慶応2)年、津和野藩と浜田藩境の扇ヶ原で戦火を見る事になった。
敗走した浜田藩士族の家族は山陰道を東へ歩いたという。近世以降初めて山陰道が戦いの場になった時だった。

 B明治になると大きく分けて三度の改修が行われた。( i )まず松江から東の「東京道」が「近代的」改修を受けた。 幅二間(約3.6M)以上、馬車通行の可能な道路となった。 ( ii )次にいわゆる「三大道路」の改修が1884(明治17)から1891(明治24)までかけて行われた。 その内の一つが松江から浜田を通り津和野を経て長門に入る「長門道」だった。 旧国道
(下図@B)と呼ばれる新しい道だった。その後、時代は馬車から鉄道へと移って行く。 1921(大正10)年浜田まで、1923(大正12)年益田まで開通した鉄道はその後1931(昭和6)年下関まで到達した。 (iii)そして三つめが国道9号線の改修である。1965(昭和40)年からというから、自動車輸送を想定してのものであった。 幅も広くなり時速60キロが出せる道路になった。 これが今の(新)国道9号線である。
図@1901(明治34)年市街地部分 図A1737(元文2)年 浜田城下図(復元)
図B
1901(明治34)年陸軍作成地図(色付) 旧国道 1901(明治34)以前からの往還道
《古代のハイウェイはあった》

道は踏み跡から始まったといわれる。元々道は造る物では無く出来る物だった。そして時代を経るに従って道路網が徐々に整備されて来たと思われている。 だが律令時代の駅路跡が各地で発掘されると、その思い込みは大きな修正が迫られた。 それらは6m、9m、12mに規格化され両脇に側溝を備えた堂々たる直線の道路だった。 駅路の総延長は6500km、現在の高速道路網に匹敵する規模だったともいわれている。
地形や生活利便性を無視して、都までを最短で結ぶことを目的としている道だったようだ。 庶民の生活や利便は想定されていなかったように直線で壮大な道だったようだ。 『延喜式』に諸国駅伝馬条が見える。 『延喜式』とは平安時代の延喜年間(901〜919)に編纂されたもので、式は律令格式の式で、行政法の施行細則だった。
《大橋口まで》(浜田の街道ABを参照)
  下府川を渡り、昔の神在坂を越えると長沢に出る。
野球場や体育館のある東公園にある武道館前の道を下りJR梨田踏切を過ぎたら浜田駅へ繋がる道に出る。 駅を過ぎ、線路沿いに直進すると君市踏切が見える。その先の浜田川を避けるように右にカーブしている道が山陰道である。 現在は鉄道の下を潜り抜ける車道と歩道が出来ているが、以前はそこに田町踏切があり、渡るとすぐ右側に龍泉寺の門が見えた。 現在門の位置は変ってしまったが寺は昔と同じ場所に再建されている。 藩主が参勤の為江戸に出発する時はここで家臣家族と別れ旅支度を整えたと伝わっている。 その先右側の山本精肉店付近に当時浅井川が浜田川に繋がっていて、橋向うには番所があった。
ここからは城内であり許可無しには通行出来なかった。 その橋を渡らずに左に折れ、現在の相生橋を渡り牛市から三重、(中)紺屋町を通り旧本田家具店前のT字路(現在は四つ角)まで出ると右に大橋が見える。
  この大橋南詰めには札所(参考@)があった。大橋の方へ右折せず真っ直ぐ進むのが城下町浜田を通過する当時の山陰道だった。
【三、大橋口から青川口迄の道】
大橋の向うは丸の内 新町を西に進む
この町にも空地空き店舗が目立つ 市内一の商店街だった 当時傘町と呼ばれ、浜田川土手に向かう路地
図D
右の絵図Dは1737(元文2)年の浜田御城下絵図を元にした町割り図です。
蛭子町から門ヶ辻町=現在の京町の筋を本通りと考えていますが、広小路を宝珠院に向けて左折し、 真光寺町-観音寺町=現在の真光町が本通りとする見解も否定出来ません。

町屋
侍屋敷


山陰道と比定した道



原町,辻町,桧物屋町
門ヶ辻町,蛭子町
紺屋町,新町,片庭町 (浜田八町)
元の松本のパン、現吉田書店 この角を左に折れる
《蛭子町の由来》

蛭子堂があったと言われている。
残されている城下絵図(
資料2)にもその存在を示すと思われる物が書き込んである。
この付近は町人の暮らすいわば商店街であり、蛭子講のお祭りがあったとしてもなんら不思議ではない。
では何処にあったのか。広場の長安院口に寄った付近ではあるまいか。
また、蛭子の神様は何処に行ったのか。近くの天満宮の拝殿に写真がある。 そこには「1917(大正6)年3月24日焼失」と記されている。現存する社殿の前の前のものである。
拝殿の向かって左、筆塚の辺りに小殿が見える。これが蛭子堂だったとの証言を得た。
「幅一間あまりの堂があって、蛭子講のお祭りをしていた、と父親から聞いた。」(1928(昭和3)生れの田中歯科医さん)
また、「広場にあったが、天満宮に合祀された」と聞いた記憶がある(東理髪店主さん)との話しもある。
そして、1838(天保9)年の幕府巡見使の原井村朱引帳(
資料3)に蛭子堂の文字が見える。
1876(明治9)年頃から作られた原井村村誌に天満宮の項がある。1874(明治7)年村社になっている。 「境内末社 恵比須神社 祭神事代主神 祭日七月二十日」とある。明治の早い時期には既に天満宮に移っている。
そうしてみると、やはり蛭子堂はここにあった。いつか天満宮に合祀されて、1917(大正6)年に焼失し現在に至っている、という事のようだ。
左手にある天神社
今、駐車場になっている場所(下写真1)に小さな堂が昭和年代まであったとの複数の証言もあるが、それが何だったのか、何処に行ったのかは不明である。
資料2 蛭子堂と推定される
城下絵図(部分) 長田 礼 氏蔵 城下町絵図(部分) 浅野氏 寄贈 資料3御巡見様御用 朱引帳(1838(天保9)年) 河上 直良氏 蔵
1686(貞享3)年以前の屋敷割と思われる 1737(元文2)年藩から国目付に差出した絵図の控
城下町方絵図(部分)俵 直一郎氏蔵 御城下絵図(部分)梅田 正武氏蔵
1771(明和8)年の溝見分時に使用された写しと思われます 1808(文化5)年6月から翌年7月23日の間に写された城下絵図
天満宮拝殿に残されている蛭子堂の写真(白丸)、(赤丸は拝殿) 《巡見使の歩いた蛭子町・門ヶ辻町》
幕府が大名を監視観察した制度に巡見使があります。
1633(寛永10)年から1838(天保9)年まで9回実施されたといいます。
上の資料は宇野の組頭、河上家に残されていた案内帳の一部です。一行約110人を庄屋クラスの人物が案内した時のものです。
「1838(天保9)年戌四月日、原井村」と記されています。3月19日江戸を発ち4月23日出雲の吉佐に入っています。
当時の蛭子町から門ヶ辻町の部分です。門ヶ辻町とは現在の広小路から京町の通りになります。
右から通りに沿って道の両側の様子が記されています。
天神・長安院の次に蛭子堂と続き、八幡・宝珠院の名が見えます。
前方の細い道が長安院口 写真1同左
《巡見使の道は山陰道の本道?》

幕府巡見使が各藩の視察の為歩いたその道が必ずしも参勤交代に使った官道や本道という訳ではない。 その目的地によって重なる事もそうでない事もあった。 が、浜田八町と言われる城下町を100人を越す人数で練り歩いたとすれば、そこが表通りと考えてもいいと思う。 広小路に出た後、原町の光西寺まで特に記載が無い。 宝珠院の前から現在の真光町を通ったか、とも読めるが、門ヶ辻町との文字があり現在の京町筋でいいと思う。 城下の境青川迄の近道はと考えれば他にもあるし、寺ばかりの通りより、又侍屋敷ではなく町人達の町並が本通りと考えられる。
広小路(ひろこうじ)と呼ばれている 右に曲れば蛭子町 この先にも広小路がある
栄町ロータリーに出る道(当時の飯田町) 南には八幡宮がある 鳥居の左奧は長安院、右手宝珠院
突当たりが広小路 鍵曲りの道 城下町の風情のする広場である
振返って現在の栄町方向を見た所 京町、当時の町屋筋である
広小路と呼ばれた広場はいくつかある。
今でこそ「広小路」は固有名詞のように使われているが、道が鍵形に交差した所は広くなっていてそれぞれ広小路と呼ばれていたようだ。 徒歩や自転車で裏道小道に入ってみるとそんな場所に出くわす。 突然異空間に迷いこんだような気もするが、懐かしいような気分になってしばし佇んでしまう。
9号線で斜めに切られた通り ここに出て来る そして、鍵曲り
唯一残った銭湯の前を行けば 又、鍵曲り ここからはほぼ9号線に沿う
左、光西寺 右、十念寺 資料C読みやすいように一部文字を回転させています
十念寺の向い この先 《毘沙門堂》
1838(天保9)年の巡見使の記録資料Cには、光西寺と専称寺の間に「毘沙門堂」とある。道の向いには十念寺の文字が見える。 十念寺の先の佐々木理容店の真向いに存在していた。が、現在はお堂も崩れ、毘沙門像も現地には無い。真光町の八幡宮に預けられていた。 そして今でも毎年10月12日には、ここ原町の氏子達が集りお祭りをしていると云う。 毘沙門堂が何時からあって如何なるいきさつで八幡宮に行ったか、など不明である。 今から45年程前まで毎年地元でお祭りをしていたと聞いた。 当時既に堂は崩れており、八幡宮に預けた像をその日だけ持ち帰り大達家の前でお祭りをしていたという。 町内で火事があり、毘沙門像を他所へやったからだと当地でのお祭りをするようになったそうだ。今は八幡宮でお祭りもしていると聞く。 牛尾宮司(奥)様にも確認した。
無人の家屋と朽ちた痕跡 ここに「毘沙門堂」があった この廃屋(稲葉家)と堂は繋がっていたという
左ビル手前を左折すれば 専称寺 青口番所があった専称寺前
《牢屋》

ここで参照している1838(天保9)年の巡見使朱引帳に「牢屋」(ろうや)とある。 牢屋とは柵門のある青口番所に付随の留置場と考える。
資料D
行く手を阻むように迫り出している山 大石電器店横に道がある
《刑場とさらし場》

刑場があったと言われている。町外れ、街道の側だが少し山に入った所、水=海、川に近い、などそう思われる場所である。 以前
牛乳の工場があった所辺りである。 青川の手前、青口番所を過ぎ少し山中に入った場所が比定されている。 先で触れるが、首を見せしめた「さらし場」もあったと言われているが、ここではなかったように思う。 道行く人が行き止まりの山中にわざわざ入って行くだろうか。もっと街道の側だと思う。
少し登ると右に平地が開ける 左上に道の駅-夕日パークが見える 塗固められた法面の右横にあった(上は道の駅)
青川陸橋手前で道は三つに分れる 真ん中の道を下りて来れば 「小石川橋」に出る
石陽浜田府内図1771(明和8)部分       文字緑線=道加筆
《小石川・青橋》

1889(明治22)年4月、浜田八町・浜田浦・松原浦・黒川村・浅井村・原井村の合併により、浜田町となった。 明治新政府は1872(明治5)年「皇国地誌」の編集を決定した。各府県では調査の結果、1886(明治19)年位迄に国に提出している。 その時に原井村村誌が県に提出され残っている。

 「小石川 四等川ニ属ス。深キ所弐石(尺)、浅キ所壱尺、広キ所三間 狭キ所壱間、上流急ナリ、下流緩ナリ。水清シ。舟通ゼズ。 本村字柳ヶ内ヨリ出デ北方ニ流レ、字青ヨリ海ニ入ル」

 「青橋 山口街道ニ属ス。小石川ノ下流ニアリ。水深サ壱尺、広サ三間、橋ノ幅弐間、長サ三間、木製」と記載がある。

柳ヶ内(やなぐつ)から流れる川が小石川で、下流にある橋が青橋であり、山口街道とはどういう事か。 木製というのも朱引帳
資料Dの土橋とちがう。
現在架かる小石川橋が青橋であり、湾岸道路に続く少し下流の現在の青川橋は無かった、と考えればいいと思う。 1945(昭和20)年完成した湾岸道路の為に架橋されたと。そして、土橋とは板橋の上に土が盛ってある橋の事である。
 又、左の絵図を見ると専称寺・番所横を川が流れている。今の青川=当時の小石川とは別の流れであり指方山の手前にあった。 現在は暗渠になっていて道の下を流れている。池田溝の事である。

2003.9.15(編集、文責 五月の緑)

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