145 寺戸恒晴の世界
                                         《2011年3月1日》
 三隅梅林公園の1018本の梅が今年も春の訪れを告げています。
 新館展示室では、当地出身の洋画家寺戸恒晴の没後初の回顧展「ふるさとが生んだ画家 寺戸恒晴」を開催中です。
 1922年に那賀郡西隅村に生まれた寺戸は、子どもの頃に雑誌の挿絵に興味を持ちました。東京の美術学校に進学しましたが、在学中に召集されて満州へ渡りました。終戦後、シベリアに抑留され、3年間筆舌に尽くしがたい過酷な捕虜生活を強いられました。
 引き揚げ後、寺戸は、東京で本格的な創作活動を始めました。寺戸は、シベリア抑留体験をもとに描かれた人の生死や家族の絆を題材にした質感のある力強い作品を次々に生み出しました。「たおれた人守る人々」という作品には、倒れる人とそれを見守る人が描かれています。倒れた人は、寺戸自身の弱さを表現したもの。支える人は、それではいけないと強く生きようという気持ちを現したものです。
 不安定な生活や病苦にめげることなく、彼は「生きることが描くことである」とひたすら絵を描き続けました。北海道・関西・北陸・山陰と訪ね歩き、各地の勇壮な祭りを取材して作品にしました。そして、石見神楽にたどり着きました。1979に発表した絵本「ケンと石見神楽」はこの時の取材をもとにした傑作です。
 一方、62歳の時から毎年のようにパリに出かけ、町並みや教会を描き続けました。すると、それまでの白と黒を基調とした絵が鮮やかなものに一変しました。そこで使われたのが「寺戸ブルー」と呼ばれる独自の青の色調です。
 晩年の寺戸は、ふるさとを題材とした作品を数多く描きました。その多くが「寺戸ブルー」の作品です。セーヌ川の色と日本海の海の色が同じマリンブルーで描かれています。
素朴で温かく、見る人全てに懐かしさを感じさせてくれる作品です。
 「石見灘・日本海」は2002年に描いた作品です。三隅の上空から西側を見た作品です。もちろん、これは実際の風景ではありません。
 集落が数十年前のままにあり、火力発電所も描いてあります。見えない筈の益田の町並みを描いてあります。これは、画家の心の中にある石見の風景画です。
 穏やかで静かな海ではなく、少し荒い海が濃い目のブルーで表現されています。画面に深みを持たせると同時に、日本海の深さや日本海そのものの存在感を出したいと敢えて濃くしました。作品には勢いよく沖に向かう三隻の漁船が直線的に描かれています。それは石見人の生命力です。
「厳しく美しい石見の風土の中で、倒れても倒れても起き上がって立ち向かっていくという石見人特有の根強さを表現したかった」と後に教えていただいたことがあります。
 2002年4月、彼は数十年振りに大平桜を訪れ、一週間に渡ってデッサンしました。それをもとに描いたのが「明けの大平桜」です。描かれている桜は、実際の大平桜とは異なります。あくまでも寺戸の心に見える老桜の姿です。
 2003年4月、寺戸は散歩中に転倒したのがもとで病床につき、一年に及ぶご家族の懸命の介護の甲斐もなく、翌年5月30日に逝去しました。
 早朝の澄んだ空気の中に立つ大平桜の威風堂々たる桜。あたかも画家の姿を見るようです。この作品が最期となりました。
 一人でも多くの方々に、この素晴らしい寺戸世界をご覧いただきたいと願っています。そして、このような画家を生んだ石見に住むことを誇りに思います。
                                    (主任学芸員 神 英雄)


  144 若冲へのあこがれ
                                         《2010年12月1日》
 11月3日、「いわみ学事始」の受講生の皆さんと一緒に大阪府豊中市小曽根一丁目にある西福寺を訪ねた。
 ここの本堂には、伊藤若冲の『仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)』(国重文)があり、これまで、十一月三日だけ虫干しを兼ねて特別公開されてきた。

 京都に生まれた若冲は、天明八年の大火で家と作品を失い、失意の中吉野五運を頼って大坂に行った。そして吉野とゆかりのある西福寺住職に依頼されて、約一年間滞在して本堂の襖にサボテンと外国産の鶏を描いた。七四歳の時だった。左右各三面には、それぞれ当時珍しかった外国産の五羽の鶏が金地を背景にシンメトリックに描かれている。それぞれの中央には逞しい雄鶏が立つ。ダイナミックな作品だが、細部を注視すると、羽毛一枚一枚が精緻に表現されているのが判る。若冲作品の集大成ともいえる名作だ。

 石本が二〇歳の時のことだった。京都絵画専門学校に進学したものの、円山四条派の形式に則った授業に嫌悪感を覚え、学校にはあまり行かず、二つの洋画研究所を掛け持ちして通った。そして、暇を見つけては博物館や古寺に出かけた。
 昭和十五年秋、彼は西福寺を訪ね、『仙人掌群鶏図』を見て感動した。当時、だれも若冲を知らなかった。石本は、描かれている鶏を見て、若冲が心で描いたものだと感じた。二回生への進級制作の際、石本は京都上賀茂の農家に何度か通い軍鶏を観察し、若沖にヒントを得て『軍鶏』を描いた。若冲へのあこがれが描かせてくれたと石本は話す。
 ところで、まだ日本人があまりイタリアを訪れていない頃、石本は地方の小さな教会を教え子たちとともに巡り、ロマネスク美術を見て歩いた。教会に着くと、現地の人が入り口の鍵をあけてくれた。このようなローカリティこそが本物の文化だと石本は考える。彼は人の集まるところに出かけるのでなく、自分の心が惹かれるかどうかを大事にする。当然ながら、一般の評価や流行に全く関心がない。

 目指す西福寺は住宅街の一画にひっそりとあった。人通りもほとんどなく、特別公開を思わせるようなものは何一つない。墓地を抜けると本堂の前に出る。恐る恐る扉の中を覗くと見覚えのある鶏が見えた。「ああここだ、間違いない」とほっとして、皆さんに合図した。大都市の博物館や美術館で特別公開された時は黒山の人だかりだったが、ここでは訪ねる人は決して多くない。入り口で記帳し、それぞれ本堂外陣の襖絵の前に座る。外陣中央には『蓮池図』、横には『山水図』。さらに『野晒図』もあった。本堂の中は若冲の感動で満ちている。長い時間かけてじっくりと鑑賞する。作品の迫力に終始圧倒されて言葉も出ない。
 二人連れの女性が「石正美術館の方ですよね」と声をかけてきた。「そうです」と答えると、「先日、美術館を訪ねた際、特別公開のことを教えていただきました。本当にありがとうございます」とお礼を言われた。こちらもうれしくなった。

 外に出ると秋の陽光がやさしく降り注いでいた。ふと、「本物であれば、人は訪ねてくる。決して目先のことを考えるな」という石本の言葉を思い出した。満ち足りた気分でお寺を跡にした。石正美術館を訪れた人にも同じような気持になって欲しいと思いながら、何度もお寺を振り返った。
                   (浜田市立石正美術館主任学芸員 神 英雄)



  143 川端康成と石本正
                                         《2010年9月26日》
 京都・祇園の甘味処鍵善。連日沢山の人で賑わう喫茶室の奥に舞妓の絵がかかっている。川端康成が石本正から譲り受けて、小説『古都』ゆかりの鍵善に寄贈したものだとされる。
 あまり知られていないが、日本画家石本正と文学者川端康成は深い友情で結ばれていた。二人は、何度も祇園で語り合った。川端は石本の官能美をこよなく愛し、石本も川端のはかなさに対する想いや女性に対する温かさを絶賛してきた。
 一九七一年三月、第三回日本芸術大賞の審査会の席上、石本を強く推す川端康成と洋画家の地主悌助(じぬしていすけ)を推す小林秀雄が鋭く対立した。長時間審議したが、互いに自説を譲らない。結局、主催者の配慮で異例の二人同時受賞と決まった。
 翌年一月、所用で飛鳥にやってきた川端は、その帰りに京都の石本を訪ねた。描きかけの上半身を裸にした舞妓立像を見せると、「いよいよ石本観音ができますね」と話し、じっと絵を見つめた。
その日、二人は祇園に出かけた。芸妓に書をねだられた川端は、鎌倉時代の明惠上人の言葉を色紙に認め、その言葉の意味を芸妓に説明した。芸妓はしきりに頷いて聞いていたが、難しいうえ、川端の声は細々と聴きとりにくかったから、理解出来る筈もない。川端にとって、相手が理解できるかどうかは問題ではなく、自問自答していたのだろうと石本は述懐する。
 その三カ月後、川端が自死した。
 大阪府河内長野市の観心寺で如意輪観音像が開帳される。石本は毎年欠かさずお参りに行っていた。出かける直前に川端の訃報に接した石本は、なんとしても如意輪観音の前で供養して貰いたくて、例年とは違った改まった気持で出かけていった。しかし、観心寺では個人的な法要は一切営まないとの理由で断られてしまった。この如意輪観音や、平泉中尊寺の一字金輪坐像の美しさは川端文学の世界に通じる。それだけに残念でならなかった。
 石本は、その足で葛井寺(ふじいでら)を訪ね、千手観音像の前で読経してもらった。その時、「典型的な日本人がまた一人亡くなったのだ」という悲しい想いがこみあげてきた。
 川端がアトリエにやってきた際、「今度、京都の北山に『古都』の石碑をつくることになったんやけど、発起人を引き受けて貰えんやろか」と願った。石本はそれを認め、短冊に自分の名前を書いて渡した。

 京都市右京区中川の北山杉資料館に建つ石碑は、川端が亡くなった後、十一月に完成した。生前川端自らが建立場所を決め、文章も『古都』の一節を抜粋して自らが書いた。裏面には石本とともに衣笠貞之助・今東光・湯川秀樹・東山魁夷ら発起人の名前が見える。これらの人選と依頼も川端自らがしたものだった。
 石本はもう二十年以上祇園を訪ねていない。しかし、川端とよく会った祇園のお茶屋をイメージした作品を描いたり、舞妓像を描いている。それらは、祇園の思い出が描かせてくれた作品だ。川端と過ごした日々は今もしっかり彼の胸に刻まれ、作品に反映されている。
         (浜田市立石正美術館主任学芸員 神 英雄)


  142 観察することの大切さを伝えたい
                                         《2010年8月17日》
 石正美術館で開催中の企画展「日本画動物園」では、石本正の描いた鶴や馬など43点の動物の絵と、石本を感動させた現代日本画家が描いた虎やカエルなど27点が展示されています。
 石本は、絵を描く時、見たままをその通りに描くのでなく、細部にこだわることなく、心で描くことが大切だと訴えてきました。そのためには、しっかりと観察することが必要です。
 石本は、しばしば動物園に行って動物を描きます。鳥や動物は、一時もじっとしません。そんな時は、写生をやめて、動き回る彼らを観察します。すると、動物の一瞬の動きが画家の心を掴むことがあります。ただ漫然と動物を見るのではなく、しっかりと観察することで、動物の心をつかむことが出来るようになります。そうすると、彼らが「こう描いて」と教えてくれるといいます。
 一方、新館に展示している動物画は、全て石本を感動させたものです。それぞれの画家が、動物と心を通わせて楽しく描いています。それゆえ、作品には、いずれも本物の感動が宿っています。石本に言わせれば、これこそが「心で描く」ということなのです。
 その中の一人岡崎國夫氏は84歳。動物が大好きで、若い頃から動物を描いてきました。京都だけでなく、名古屋の東山動物園にも出かけて描いたことがありました。動き回る動物を追いかけたり、押さえつけておくことも出来ないので、動物の前にスケッチブックをもって立ち、写生することなく、ひたすら彼らの動きを見ていたこともあったそうです。
 岡崎氏は、動物の動きを見ながら何枚もデッサンを描き、それをもとに小下絵を描きました。一枚だけでなく、何枚も描きながら、だんだん詳しく描いていきました。そうすることで、自分の体に覚えさせるのです。観察して、自分の体に覚え込ませることで、自分だけの絵が描けると教えてくださいました。「絵を描くのは楽しかった。辛いこともあるが、やはり楽しかった」と昔を懐かしみます。
 こんな画家たちの心を浜田のこどもたちに伝えたいと考え、みんなで話し合い、教育長さんのお許しもいただいて、市内の全ての小学生を無料招待することに決めました。
 7月中旬、2日かけて全ての小学校を廻り、「日本画動物園」の招待券を配って歩きました。浜田市内には25の小学校と1つの分校があります。児童総数は2845名です。一人でも多くの子どもに、観察する力を身につけてほしい、そのきっかけにしてくれたらという思いで車を走らせましたが、とにかく広いのです。隣の学校まで20分ほど走ってようやく辿りつくところもありました。そのかわり、たくさんの美しい景色に出会うことが出来ました。
 弥栄から三隅へ帰る途中、西の空が晴れ上がり、茜色に染まっていきます。一斉にひぐらしが鳴き始め、涼風が谷を渡っていきます。深呼吸すると、雨上がりの森の匂いが体中にしみ込んできました。
 こんな素晴らしい土地に住んでいることを幸せに思いました。2日間、市内全域を走ることで、私は浜田を観察出来たように思います。これまで気づかなかった魅力に出会えました。
 夏休みに入り、美術館に来てくれた小学生は100人足らず。「まだまだだな」という気持ちと「うれしいな」という気持ちが半々です。「一人でも多くの子に観察する力を身につけてほしい、素直な感性をもって欲しい」と願いながら、毎日仕事をしています。
           (浜田市立石正美術館主任学芸員 神 英雄)



  141 特別展へのご入場ありがとうございます
                                         《2010年7月1日》
 新館オープンと石本正卒寿を記念して開催された特別展「石本正 今、伝えたい思い」が、6月28日に終了しました。おかげさまで、会期中、当初の予想をはるかに上回る七千人以上の方が全国からご来館くださいました。
 お客様から要望があれば、学芸員は展示室に入り、画家の生き方や絵を描くよろこびを短時間で説明しました。その際、「新館が出来たというので3年ぶりに来ました。お久しぶりです」という広島の方。「どうしてもまた行きたいと家内が言うもので。新館が出来ていよいよ素晴らしくなりましたね」とおっしゃるのは出雲市の方。その言葉がどれほどうれしかったか。新館オープンを機に以前来られた方々が大勢戻ってきてくださったことを知りました。
 十年前、石本は私たちに「フランチェスカの『懐妊の聖母』がイタリアのモンテルキの村人に大切に守られてきたように、自分の作品が人々を感動させるものであれば、時代を超えて人々は支持してくれる。本物であれば、人は探してでも来てくれる、何度でも来てくれる」と話しました。今、その言葉の通りになっていることをうれしく、そして有り難いと思います。
 一隅に置かれた「お客様アンケート」にも多くの感想を頂戴しました。
 大阪府の女性は、「久々に素直なすっきりした気持ちになれました。邪念のない作品を見たからでしょう。時間を気にせず、絵を見る一人の一泊旅行の最初にこの美術館を訪れました。6時前に大阪の自宅を出、約六時間かかりましたが、悔い無しです」と書いてくださいました。また、東京からお越しくださった女性は、「私も絵を描きます。頭で考えすぎる私の性格を刺激してくれる、そんな展示でした。私もまた絵を描きたくなりました」と喜びを寄せてくださいました。
 このたびの展覧会では、作品を展示するだけでなく、画家の思いが伝わるように会場のあちこちに石本の「言葉」を置きました。これを読んだ大阪の女性は、「絵に対する姿勢や表現に感動いたしました」と記しました。
 反面、「石本正氏の人となりを充分理解できる展示とはなっていなかったように思う」(大分県男性)のご指摘や、「絵を鑑賞されている方の私語が多く、館内にひびいていて少し残念でした」(大田市の女性)という声もありました。今後の課題として取り組んでいきたいと思います。
 近年、美術館の評価として、どれほど多くの人が入場したかを指標とすることが多いのですが、私たちは、決して入場者数が多ければいいとは考えていません。
 私たちは、「絵は心だ。作者の名前や肩書きで判断したり、先入観を持つことなく、素直な心で作品に向き合って欲しい」という石本の願いを全国に伝えていくことが大事だと考えています。これは、すぐに出来ることではありません。辛抱強く続けていくことで、きっといつか多くの人が判ってくださるものと思います。
 その一方で、石本を生んだ石見の魅力をこの地に住む人々に伝えていきたいと願っています。
 石正美術館がオープンした当時、美術館の向かいの森には立ち枯れた木がいっぱいでした。十年経って、今では鬱蒼たる森となりました。中庭のしだれ桜も見違えるほど大きくなりました。
 私たちは、これからも、誠実に活動を続けていきたいと思います。そして、「来て良かった」と言っていただけるようより多くの方々に「絵をみる喜び」を伝え続けていきたいと思います。どうか、これからもお力をお貸しいただきますようお願い申し上げます。
            (浜田市立石正美術館主任学芸員 神 英雄)



  140 石本正の目 《2010年5月5日》
 スタインベックの言葉に「天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年である」というのがある。70年間絵を描き続けてきた日本画家石本正は、まさにそのような人である。
 石本は1920年7月島根県那賀郡岡見村(現在の浜田市三隅町岡見)に生まれた。周りは自然にあふれていた。ふるさと石見で培った子ども時代の素直な感性を今も失わずにいる、それが彼の制作の原点だ。子どもの時の感じ方が非常に大事だという。
 20歳の時にふるさとを出て京都絵画専門学校に入学した石本。まわりの学生は絵を描くこと以外に興味を持たなかった。また、学校では一方的に技術を教えられた。それらに疑問をもった彼は、学校にあまり行かなくなり、洋画教室に通ったり、寺院や博物館に出かけた。石本にとって絵を描くのは遊びだ。楽しくて仕方ない。時にはしんどいこともあるし、苛々することもある。それでもやはり遊びなのだ。毎日アトリエでいろいろな絵を描き、気が付いたら卒寿を迎えていた。
 石本は桜や富士山などを描こうとは思わない。逆にだれも見向きもしないものの中に美を見つける。
 昨秋、「家の近くの路地に素晴らしいイチョウがあるから見に行こう」と誘われて出かけると、日陰で生育の悪いイチョウが数十本。一本の枝をステッキで指し、「切ないなあ。これが僕の心を打つんだ」と石本。病気のため変形した枝が、「悲しさと美しさは同じ言葉だ」と考える石本の心を打つ。行きかう人は誰も見向きもしないが、そんなことは関係ない。大切なのは自分が感動するかどうかだ。数日後、それは一枚の絵になった。
 牡丹は石本にとって大きなテーマの一つだ。
 明治以降の日本画では、申し合わせたように牡丹を斜め上の視点から描く。軸物だと下方にちょっとあしらって描く。あたかも一つの様式があるかのようだ。石本はそれを嫌う。毎年四月下旬になると、彼は京田辺市天王の牡丹園に行く。ここの牡丹は、種から育てたもので、幹の高さが数メートルもあり、花も大きくない。石本は、下から仰ぎ見たり、真横から凝視して描く。花も葉っぱもそれぞれみな違う。その違いが心を捕まえて離さない。牡丹の中にある女性の美しさ、艶っぽさ、生々しさ、心臓の鼓動などを音楽のように表現したいと思ってたくさんの牡丹を描いてきた。
 現代の美術界は、東京一極集中だ。石本はそのことにも疑問をもつ。たとえ交通不便なところでも、時流に乗っていなくても、そこに本物があれば、人は必ず時代を超えて求めて訪ねていく。それこそが本当の文化なのだと考える。
 ロマネスク美術がそうだった。この時代の作品の多くは、作家の名前が判らなくなっている。それでも、作品が素晴らしいから見る人の心を打つ。絵というのは、流行を追いかけるのではなく、なによりも心が一番大事だと考える。石本は、「画一的になりすぎ、またそれ以外は認めようとしない現代の画壇に、浜田から新風を吹かせたい」と願い、作家の受賞歴やマスコミの注目度などに関係なく、彼を感動させた「真に喜びに満ちた個性あふれる作品」の蒐集を浜田市に提案した。浜田市はその提案を受け、優れた作品を蒐集した。石正美術館新館は、それらの作品を展示するために建設された。
 卒寿を迎えた画家は、「絵を描くのが楽しくて仕方ない」という。次々に描きたいものが現れてくる。楽しいからつい夢中になる。絵を描くことが面白くてならない。
 石本はみずからの歩んできた道を振り返り、「僕は、子どもの時から本能で生きてきた。人の評価は気にしない。好きな絵を描き続けてきただけだ」と話す。その目は少年のように輝いている。
             (浜田市立石正美術館主任学芸員 神 英雄)




  139 美術館学芸員の歴史研究 《2010年4月29日》

朝5時。目覚めるとすぐに外を眺め、晴れて穏やかな日は釣りに行く。そうでない時は文献を読み、原稿を書く。
 京都から石見にやってきて10年。稀代の画家石本正(90歳)の「思い」を全国に伝えるべく励む一方、休みには空中写真と地形図を手に、柿本人麻呂の痕跡を探して山野を歩いてきた。
 今もなお自然と人間が調和した文化景観が息づいている石見。ここは大規模開発がおこなわれなかったため、今も古代道路の痕跡がそこかしこに残り、古道や人麻呂に関する伝承も連綿と受け継がれていた。そのため、歴史地理学の手法で古代景観に迫ることが容易だった。
 踏査作業と並行して、柿本人麻呂が石見で詠んだ相聞歌や臨死歌群について従来の研究成果を調べ始めた。そして、70年代後半以降、複数の国文学研究者が、作品そのものを検討して鑑賞しようとする姿勢に基づいた研究成果を相次いで発表し、これを契機に柿本人麻呂研究が大きな進展を見せたことを知った。多くの研究者が、人麻呂は実際には畿内で亡くなったが、歌人人麻呂への志向が石見で亡くなったという伝説をうんだと理解していることも知った。これに対して、歴史学や歴史地理学および石見在住の歴史研究者からの検証作業はこれまでほとんどなされなかったようである。このことを知った私は奮い立った。また、揺るぎないもののように見える鴨山畿内説についても、資(史)料に基づいて吟味・検討してみたいと考えるようになった。
 そして、この4月、多くの方の力をお借りして10年間の研究を『柿本人麻呂の石見』(自照社出版)として発表させていただいた。
 ある方から、「学芸員の仕事と人麻呂研究は無関係では」と尋ねられたことがある。「私は仕事で研究をしているのではありません。18歳の時に歴史地理学と出会って以来、研究は生活の一部でした。学ぶのは遊びです」と答えると怪訝な顔をされた。
 学ぶのは楽しい。定説とされるものでも疑い、果敢に挑戦する。すると時として新事実と出会える。その瞬間、電気ショックのような感動が体を貫く。
 私は、父がそうであったように人生最期の瞬間まで学び続けたい。そして、知りえたことを次の世代に伝え続けたい。今、学べることがたまらなくうれしい。私をここまで導いてくださった全ての人に心から感謝したい。
           神(じん) 英雄(浜田市立石正美術館主任学芸員)


  138 祈りの部屋 《2010年4月23日》

浜田市立石正美術館で、新館オープンと、日本画家石本正の卒寿を記念した特別展「石本正 今、伝えたい思い」を開催している。本館では、石本正の花・女性像などの新作のほか、数十年前に描いた未発表作品を展示。新館では、石本を感動させた24名の日本画家の珠玉の作品を公開している。中でも、「祈りの部屋」に置かれた岡崎忠雄の『キリストの復活』(模写)は圧巻だ。
 石本は、1969年から毎年のようにヨーロッパ中世美術を巡る旅にでかけた。その際、イタリアのサンセポルクロ市立美術館のピエロ・デッラ・フランチェスカの『キリストの復活』に深く感動した。この作品には、キリストへの熱い憧憬が込められていた。同行した岡崎忠雄も、ピエロの崇高な世界に心を動かされ、一九八三年から五年間にわたり家族とともにイタリアに出かけ、この作品を模写した。彼は完成した作品を日本に持ち帰り、アトリエの壁に据えつけ大切にした。
 岡崎は、2002年に59歳で亡くなった。それ以降、この作品は、ご家族にとって岡崎を偲ぶ大事な作品となった。


祈りの部屋

石本は「心ある本物の作品を蒐集・展示することで、文化は流行でなく、心や気持ちが一番大事だということを浜田から発信したい」と願い、自分が感動した作品の蒐集を行った。その中でも石本が特に高く評価したのがこの作品だった。石本の強い気持ちをご家族が理解くださり、2008年5月、石正美術館に運ばれた。
 石本は、新館建設にあたり、『キリストの復活』だけを展示する部屋の設置を強く願い、「祈りの部屋」が創られた。ここは、石本の心を後世に伝える「聖なる空間」である。美と感動に捧げた画家の魂が宿るこの部屋で、「絵は心だ」という石本の思いに心馳せていただきたいと願う。

                         (浜田市立石正美術館 学芸員 丸山智)


  137 塔天井画公開  《2010年3月18日》
 当館では、昨年夏から秋にかけて、美術館入り口にある塔最上階の天井(一辺が約4メートル)に藤棚を描いた。これは、日本画家石本正が十年来願ってきたもので、文化庁の支援のもと、京都造形芸術大学日本画研究室と共同で実施したものだ。
 8月25日、日本画家と大学院生が漆喰の白壁に木炭で線を引き、これが藤棚の支柱となった。さらに幹が描かれ、枝が伸び、数え切れない程の葉っぱが描かれた。筆や刷毛だけでなく、スポンジも使われた。手や指で直接描くこともあった。
 参加者の中には、北海道・群馬県・京都府・奈良県・大阪府・兵庫県・福岡県など遠くから駆けつけた人々もいたが、多くは地元の人たちだった。家族や友達、仲間が声をかけあって参加した。江津市立郷田小学校・益田小学校・浜田市立国府小学校は学年単位で参加した。浜田市立三隅中学校や浜田市立第一中学校の美術部もやってきた。三隅中学校吹奏楽部の生徒は、練習の合間にやってきて、楽しくいろんな葉っぱを描いた。多くの人が、岩絵の具や膠(にかわ)に触れるのは初めてだった。はじめは戸惑っていても、次第に絵を描く喜びで笑顔になった。
 途中、天井画は次々に姿を変え、ついに葉の茂った藤棚が金色の空や木洩れ日の中に姿を現した。使われたのは壁画用の顔料や岩絵の具など。金箔は千百枚以上使われた。制作日数43日。参加者は延べ592名に達した。私たちは、石本が仕上げの筆を入れるのを待った。
 10月30日、89歳の石本がふるさとに帰ってきた。60段のらせん階段をゆっくり昇り、最上階の制作現場にたどり着いた。いよいよ最後の筆を入れてもらおうとした時、石本は「これでいい。これが絵なんだ。自分は手を入れる必要はない」と話した。戸惑う私たちを前に、天井を見上げて、「本当にいいよ。奇跡と言ったらなんやけど、本当にやってよかったな。おおきに!」と嬉しそうに話した。続けて石本は、ロマネスク美術と天井画への思いを語った。「自分は田舎者だからロマネスク美術を理解できたと思う。ロマネスク美術に接すると本当にたまらない気持ちになる。その時代の聖堂の多くは、フランスやイタリア、スペインの片田舎にある。僕らが訪ねていくと、近所の農婦が入り口の鍵を持って来て、日本からやって来た事に驚き、喜んで鍵を開けてくれたこともあった。古びた石作りの建物の中で傑作と出会った感動は、今も忘れることができない。今回描いた天井画は、決してきれいではない。でも、そこがいい。多くの人の思いがこめられた作品だ。これが石見で生まれたことが素晴らしい」と。参加した日本画家は「描いた人たちの心の交響曲が奏でられているように見える」と嬉しそうに話した。
 完成した塔天井画は、季節や天候・時刻・見る位置によって様々に変化する。天上から金色、緑、バラ色の光が降りそそいで見る人の体を包み込むようだ。いくら見続けても飽きることはない。眼を凝らすと、カマキリ・トンボ・青虫・チョウチョが見つかる。それを探すのもまた楽しい。空間と一体化して本当に豊かな表情を見せる。多くのかたに見て頂きたい天井画だが、建物の構造上非公開と決められた。

 当館では、4月3日新館がオープンする。それを記念して4日間だけ公開することになった。わずかな期間だが、きっと塔最上階は絵を見るよろこびに満たされるに違いない。             
                  (浜田市立石正美術館学芸員 丸山 智)


  136 夢の話   《2010年3月1日》

 不思議な夢を見ました。

 ミモザが咲く中、多くの人が期待に胸ふくらませて車を降りてきます。中庭の満開のしだれ桜が人々を迎えます。
 本館の展示室に入ると、「若き日の石本正」の部屋。そこには誰も知らない若き日の石本作品が。花や風景など描きたいものが次々に沸き起こってきて心を突き動かされて描いたのだと話す石本。続く「私のアトリエT」と名付けられた部屋。昔描きかけてそのままにしていたものに最近手を加えた作品が並んでいます。三つ目の部屋は「私のアトリエU」。ここ一・二年に描いた新作が展示されています。いずれも喜びに満ちていて、「絵を描くのは遊びだ、楽しくて仕方ない。描きたいものが次から次から湧き出てくる。」という90歳の画家の心が伝わってきます。
 本館と新館は「プロムナード」が繋ぎます。ここは、石本作品と石本が選んだ作家たちとを結ぶ散歩道。学生時代の親友で、石本のデッサンに大きな影響を与えた三上誠の自画像や、石本の目で選んだ日本画家たちの見事なデッサンが並びます。その奥は「祈りの部屋」。ここでは白漆喰の壁にかけられた故岡崎忠雄の大作『キリストの復活』が私たちを優しく包み込むように出迎えてくれます。
 その奥が新館展示室。石本が「心の目」で選んだ24名の日本画家の渾身の作品が展示され、私たちを魅了します。
 しだれ桜を囲む回廊には塔最上階の天井画を一目見ようとする人々の列。どの顔も期待で輝いています。塔最上階には、藤棚の中に潜む蝶や蟷螂を見つけて喜ぶ人の声がこだまします。
 美術館を跡にする人々の顔は満足そうに見えました。
 訪れる誰もがわくわくする美術館になりたい、そう強く思った瞬間目が覚めました。
 4月3日の新館オープンまでいよいよ一カ月。職員は力をあわせて「石本正 今、伝えたい思い」展の準備に追われています。石本の思いが多くの人に伝わりますように、そう願いながら毎日準備を進めています。毎日が楽しくてなりません。

                  (浜田市立石正美術館主任学芸員 神 英雄)