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技術-採鉱と製錬-鉱山での作業には、大きく分けて採鉱と製錬の二つがある。採鉱は、間歩の採掘権を持つ山師・下財の下で、鉱石を掘る銀掘(かなほり)、手子と呼ばれる 12~13歳くらいの子供、石を運び出す柄山負、支柱を作る留山師などが働いていた。そして掘り出した鉱石は製錬業者に売られ、専門の技術者によって製錬が行われた後、極印が押され「判銀」という形になる。このように銀が出来るまでには色々な技術が必要となる。ここでは、採鉱・製錬の過程で使われていた道具などを紹介する。 1.坑内の作業服
『石見国銀山要集』によれば、坑内へ入る者はさざえ殻に胡麻油、綿灯心を入れて火を灯し、夏冬とも木綿の単衣袖なしに縄帯をしめ、木綿手ぬぐいをかぶり、松入という藁で作ったかますに道具類を入れて腰につけ、足半(あしなか)を履き、役人も同様の支度で入る、とある。 足半とは、足の半分までしかない短い草履で、農家などでよく使われる軽くて動きやすい履き物である。また、坑内の敷物として「しきまつ」を腰につけた。
2.灰吹に使った鉄鍋
現在発掘調査が行われている仙山(標高537m)の頂上付近にある石銀地区から平成9年(1997)10月に出土した。遺構は16世紀後半と考えられ、分析の結果、中に付着している灰の中にマンガンや鉛が含まれていることが分かり、銀を精錬する過程で行う灰吹に使用されたものと考えられている。灰吹法は、戦国時代に日本では石見銀山に初めて導入された銀の精錬法で、江戸時代には土間に穴を掘って行っていたことが当時の文献によって分かっていたが、開発初期に鉄鍋を利用していたことが今回の出土で明らかとなり、初期の精錬技術を解明する手がかりとなりそうだ。 3.通風と排水<唐箕> 米などの穀物を脱穀した後、この唐箕で風をおこし籾殻をふるい分ける農具で、元禄頃(17世紀末)から普及した。鉱山で地中深く掘り進むと酸欠・粉塵・油煙のために「けだえ(気絶え)」の状態になる。これを防ぐために鉱山でも唐箕を応用したものが使われた。この唐箕を坑内の風通しのよいところに据え、稼所まで「風箱」を継ぎ足して長くし、風を送る仕組みになっている。文化13年(1816)に書かれた『石見銀山要集』にこの唐箕のことが記されている。
<水揚げポンプ> 地中深く掘っていくと地下水が湧き出るのは当然である。坑道内ではこの地下水の処理が最も大変な作業だったと言ってよい。 石見銀山では写真のようなポンプを使って水を汲み上げていた。江戸時代には「水吹子」と呼ばれ、木製と竹製があった。 外側の箱の中に、先を箱形にした棒を入れて水鉄砲の要領で水を吸い上げ、横の穴から水を出す仕組みになっている。
4.「押」と「横相」
鉱石を掘る際、鉱脈にそって掘り進んでいくことを鉱山の専門用語で「樋押」とよぶ。仙の山の頂上付近で見られる露頭掘りの跡は、この方法で掘られたものである。しかしこの方法では十分な成果を上げることができず、やがて時代が下ると「横相」という方法が導入された。これは鉱脈に対して直角に坑道を掘る方法で、掘っていく間にいくつもの鉱脈にあたることが出来て効率がよく、これを利用して排水も出来る。この「横相」が文献で登場するのは慶長5年(1600)である。(吉岡家文書「佐世石見守元嘉書状」) この方法は山の麓からでも掘ることが出来るので、この方法が導入された後は人々の居住地や仕事場も山の上から下に移っていった。
【江戸時代の石見銀山の技術を記した主な文献】【江戸時代の石見銀山の技術を記した主な文献】 |
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