ミス・リーのモデル

舞台背景    

サーガの10作目となるこの物語は、中国が舞台のお話です。本の冒頭にもあるようにこの物語は子供たちによって創られたお話です。

なぜ、ランサムが中国を舞台として選んだのか、についてはよくわかりませんが、1926年から27年にかけて中国を訪れたことがひとつのきっかけではあったようです。その後15年もたってからランサムは、この物語を発表したのですが、他のサーガに見られるような、場所に関する説明はここでは全くと言っていいほど行われていません。

したがって、中国のどこがその地理的背景になっているのかは、この物語を読む限りでは、はっきりとはわからないのですが、「アーサー・ランサムの生涯」には、物語の中でオウムの大群が必要なのに、マレーではわんさといるが中国南部にはいない、と言って嘆いている箇所があるところから、おそらくは、広東州の南シナ海に面したどこかをイメージしているものと思われます。

この時期、中国では、軍閥や中国国民党がそれぞれ内部抗争を繰り返しつつ、双方入り乱れて覇権抗争を繰り返していました。更に、時を同じくして、南シナ海沿岸では、海賊たちがそれぞれの首領のもと略奪や誘拐を行っていた時期でもありました。ランサムは、政情の問題とは別にこの海賊たちのことも聞き及んでいました。そして、その海賊たちは、首領ごとにまとまって、それぞれの地域の行政責任者や有力者たちから海賊行為を行うことの免罪符を授けられていました。彼らが出没したところは、主として澳門(マカオ)から西江を中心とした地域だったようですが、貧しい生まれの者たちが、このような海賊商売を行う、ということは、当時としてはいわば当たり前のことだったようです。

女海賊頼翠山

その海賊たちの一人の中になわばりを父親から受け継いだ女海賊がいました。その名を、頼翠山(Lai Choi San)、と言い、引き継いだときに7隻だったジャンクを12隻にまで増やした有能な(?)女海賊でした。その女海賊のことについて触れられた本が1930年頃にアメリカで出版されています。その本は、I Sailed with Chainese Piratesと言い、アメリカ人の記者だったAloko E-Liliusという人が書いたものでした。これは、西洋人である著者が、中国人の海賊たちと過ごした数ヶ月をノンフィクションの冒険譚にしたもので、これを読む限り、著者はよほど幸運の名の星のもとに生まれてきた人としか言いようがないくらい、死の危険と隣り合わせの状況の中で過ごしていたようです。しかもこの奇妙な経験をしたのは、ちょうどランサムが訪れていた時期とほぼ重なっていたのです。

さて、その女海賊頼翠山ですが、彼女は常に2人の女の部下と多数の男どもを従えてジャンクに乗り込み、自分のなわばりを通過する船が上納金を献上していない者であったり、裕福な人の持船だったりした時には、文字どおりの海賊行為を行っていました。「女海賊の島」のミス・リーと違って彼女は、西洋文化圏で教育を受けたことはなく、生まれながらにしておしゃぶりの代わりに銃を持つような環境で育った人物でした。また、彼女は、二度の結婚をしており、子どもも二人もうけていました。Aloko E-Liliusが彼女に会ったときには、「たぶん、40歳にはなっていなかっただろう。」と言っています。
女海賊 頼翠山

もう一人のモデル

一方、ランサムは「自伝」の中で、ミス・リーのモデルは、孫逸仙(Sun Yat-sen)夫人である、と言っています。孫逸仙という人は、あの有名な孫文のことで、その夫人は宋慶齢(Song Qing Lingと言い、この時期、中国で聖書の印刷を一手に行って巨額の富を得ていた宋家の三姉妹の次女でした。
彼女は少女時代の何年間かをアメリカで過ごし、欧米の教育を受けて育ちました。スマートで端正な顔立ちをした彼女は三姉妹の中でも美人だったようで、孫文と結婚したときにはまだ23歳でした。孫文とチャーリー宋の関係についての詳細は、ここでは割愛しますが、チャーリー宋はいわば孫文の後援者兼スポンサーともいうべき立場の人物でした。しかし、娘の慶齢が孫文と結婚したい、と言ったときは激怒して、彼女を家の一室に幽閉したのですが、慶齢はアマの助力によって脱出し、日本にいた孫文と結婚をしました。

ランサムがこの宋慶齢と初めて会ったのは、1926年若しくは1927年の初頭だったと思われますが、そのとき、孫文は既に亡くなっていました。ランサムは彼女のことをまだ30歳以下だったと思う、と述べていますが、実際には35歳になっていて、孫文の意志を引き継ぎ、中国国民党左派の立場から、かの蒋介石などの右派や軍閥と対峙していました。当時、中国にいたアメリカ人ジャーナリスト、ヴィンセント・シーアンは、『一見ひよわで小柄に見えるが、大変に人を引きつける繊細さを持った人物で、気品があり、しかも確固としていた。』と述べて、彼女こそ真の革命家である、と絶賛しました。(蛇足ながら付け加えておきますと、中華人民共和国が設立され、副主席の立場までになった後も、彼女は自らの意志で共産党には入党しなかったそうです。)

ランサムもきっとこの気品ある革命家の未亡人に深く感銘を受けたのだろうと思われます。少なくとも宋慶齢のいくつかの部分、特に外見や性格、あるいは西洋で教育を受けたことなど、はミス・リーを創り出す上で大いに参考となったことでしょう。これに、本物の女海賊である頼翠山(頼財山とする説もある。)のバックグランドが重なり、女海賊ミス・リーが誕生したのではないでしょうか。
1939年の宋三姉妹(右が慶齢)

頼翠山に関する情報は、Ashさんから教えていただました。
Swallows, Amazons & D's For Ever !