1年のブランク

ここまで1年にほぼ1冊のペースで書き進めていたランサムでしたが、ブローズの物語「オオバンクラブの無法者」を1934年に出した後、この「ツバメ号の伝書バト」を1936年に世に送り出すまでには、2年の月日が必要でした。そして、それにはいくつかの理由がありました。そのひとつにそれまで作品を書き続けていた、湖水地方のラダーバーンを売り払い、ピン・ミル<Pin Mill>に近いレヴィントン<Levington>のプローク・ファーム<Broke Farm>という家に引っ越したことが挙げられます。そして、このときに7トンのカッターを購入したのでした。この船は、もともと、引退した事務弁護士のために、1931年にリトルハンプトン<Littlehampton>で作られたもので、当初はスピンドリフト<Spindrift>と呼ばれていました。その後、1933年に21歳の技師の卵がこの船のオーナーとなり、名前も、エレクトロン<Electron>と変わりました。ランサムは、縁あってこの魅力的な船を買うことに決め、気に入らなかったその船の名前を、馴染みのある名前、ナンシイ・ブラケット<Nancy Blackett>と変えることにしました。蛇足ながら、このときに手に入れたディンギー、コッキー・ボンデュ<Coch-y-bonddhu>は、陸からナンシイ・ブラケット号へ乗る移るときに必要だったからとのこと。

こうして、ナンシイ・ブラケットを手に入れたことで帆走に費やす時間が増えたこと、クリフォード・ウェッブ<Clifford Webb>が挿し絵を描いていた「ツバメの谷」に自分で挿し絵をつけて差し替えることに決め、その作業に没頭したこと、そして、「ツバメ号の伝書バト」に関して、主として採鉱に関する情報を得るために時間を費やしたことと彼自身の健康の問題のため(この頃、ランサムは、十二指腸潰瘍の痛み、頭痛、自動車事故の脳震盪などのため、たびたび入院したり、ベッドで静養していなくてはなりませんでした。)に、1935年に出版されるべきであったと考えられる「ツバメ号の伝書バト」の出版時期はもう1年先に延びてしまったのです。

物語の特徴

ところで、このような末に生み出された「ツバメ号の伝書バト」ですが、「自伝」の前書きにはルーパト・ハート=デイヴィスが、この本の執筆方法について、驚くべきことを書いているのです。それは、残された、ある時点の執筆計画表によれば1章から29章までのうち、19の章については、既に書き終わっていて、修正を施してはいたものの、2、4、7、10、11、13、18、19、23、25の10の章については、まだ書き出してもいなかった、ということです。
あらためて、全体を読んでみても、前後の章のつながりにはなんのストレスも感じられず、そのような特殊な方法で書かれたとはとても信じられません。「ツバメ号とアマゾン号」のページにも書いたのですが、これは、よほど、プロットを明確にして、全体の流れを理解しないことには、なし得る技ではない、と思います。

(注) この時点では前述したとおり、1章から29章までが計画されていました。完成された物語では、35章から成り立っていますので、その後、6章を付け加えたか、あるいはその時点で出来あがっていた29章分の原稿を35章に分割したか、どちらかであると思いますが、いずれにせよ、前述したそれぞれの章が現在我々が見ている章と一致するものかどうかはわかりません。

この物語は、「ツバメの谷」同様、陸地が舞台となっている物語です。そして、この物語のテーマは、なんと採鉱です。前作「オオバンクラブの無法者」で、ランサムは、はじめて、子供たちと大人との間の緊張を書き上げました。そして、その緊張感は、誤解が原因だったとは言え、この「ツバメ号の伝書バト」でも引き継がれています。この物語の中には、テーマである採鉱の他にも色々な出来事が挿入されています。ハト小屋のベル、水脈うらない、オールドレベルの落盤事故、ティモシイを出し抜くための秘策などなど。そういう出来事は、全て、クライマックスのために綿密に練り上げられた要素のひとつです。それまでの作品に比べると、この物語は、無駄がない、というか、一つひとつのエピソードが相互に関連づけられていて、言葉が適当かどうかわかりませんが、全体的にスリルが感じられます。これ以降、いくつかの作品を除いて、ランサムの物語にはこのような緊張感というか、スリルめいた雰囲気や大人との関わりが目立つようになってきます。こういう特色は、「ヤマネコ号の冒険」を除いて、「長い冬休み」以前では、ほとんど見られなかったことです。
また、オールドレベルの落盤事故は、年少4人があやうく天国行きを免れた、という点でサーガ全体を通じても、これは最大の危機だったのではないか、と思いますが、こういう場面を描くことができたのは、ランサムの執筆姿勢が少しずつ変化してきたからなのでしょうか。

つぶれソフトとかわらやボブ

採鉱に関する情報について、ランサムはオスカー・ノスペリアス<Oscar Theodor Gnosspelius>という人物からアドバイスを受けました。このノスペリアスは、1878年にリバプールで生まれました。したがって、ランサムよりは6歳ほど年上ということになります。彼の父親は、綿を扱っていた商人で、また、株の仲介業者でもありました。いささか変わった名字からも想像できるとおり、彼はスウェーデン人の血を引いていました。大人になってからは、土木技師となり、英国をはじめとして、アフリカや南アメリカで、港湾、鉄道、鉱山などの仕事に携わっていましたが、1906年にウィンダミア湖の西岸のシルバーホルム<Silverholme>、ウの島のモデルとなったSilverholmeと全く同じ名前の家、に移り住み、そこで水上飛行機の開発にとりかかりました。1911年11月25日には、この種の飛行機では、大英帝国初の飛行に挑戦しましたが、彼の飛行機、ノスペリアス2号は、飛び立ちはしたものの、湖面に墜落してしまい、、この試みは失敗に終わりました。もっとも、彼の名誉のために申し添えますと、1912年2月14日には、彼のフライトの成功が公式記録として残されています。その後、調査兼実験担当の技師として航空会社に勤めましたが、1925年にはそれも辞め、この年、W.G.コ リングウッド<W.G.Collingwood>の次女、バーバラ<Barbara Collingwood>と結婚しました。

そして、この頃から採鉱に関して、本気で興味を抱きはじめたようです。そして、彼とジョン・ウィリアム(ウィリー)・ショウ<John William(Willie) Show>との付き合いがはじまったのも、やはり、この頃の事でした。J.W.ショウの家は、代々採鉱に携わってきた家系で、父親ウィリアム・ショウ<William Show>の後を継いで、コニストンの丘陵地で若いときから銅の採掘に携わっていました。ノスペリアスとショウがどういういきさつで知り合ったのか、は不明ですが、彼らは、まずオールドマン<Oldman>の北側に位置するブリムフェル<Brimfell>の銅の鉱脈について採鉱に取りかかりました。ノスペリアスは、大地主や資本家を巻き込み、資金的にもかなりの努力をこの地域に注ぎ込んだのですが、結局、これは失敗に終わりました。しかし、ブリムフェルの東側には、J.W.ショウが懸命になって掘った坑道が残されていて、これは今でもJohn 'Willie' Show's Levelと呼ばれています。

ブリムフェルがものにならなかったことで、落胆した彼らでしたが、気を取り直して、今度は高品質のスレートを採掘することにしました。1933年にノスペリアスは、ウェザラム<Wetherlam>の支脈が伸びているTilberthwaite Gillの南東に位置するHorse Cragへ、J.W.ショウを行かせました。Horse Cragを切り開いたHorse Crag Level、別名、Tilberthwaite Deep Adit Levelという名の坑道は、品質の良いスレートが発掘されることでよく知られていましたが、J.W.ショウは、さらにこの坑道を切り拓いていきました。現在、この坑道は、入り口から520フィート(約170メートル)のところまで、進むことができます。行き止まりは、落盤でもあったかのように岩が天井まで積み重なっていて、どこか、オールドレベルの落盤を彷彿とさせるようです。途中、J.W.Shawが切り開いたと思われる、スレートを切り出したホール状の空間(こういうのをCloseheadといいます。)や坑道から脇に伸びていて、地上に鉱石を引き上げるための滑車のしかけ、(これをRaiseといいいます。)などが確認できます。ちなみに、Horse Levelとか、Deep Adit Levelという名前は、固有の名前ではなくて、坑道を深く掘り進めるため、丘の斜面などに切り拓いたトンネルの一般的名称のことを言うのだそうです。したがって、こういう名前の坑道は、思いの外あちこちに存在しているようなので、このHorse Crag Levelを探す場合には、ちょっとした注意が必要です。

一方で、若いときから知っていて、求婚までしたこともあるバーバラを介して、ランサムはノスペリアスと知り合いになりました。そして、ランサムは、採鉱に関することの教えを乞うために、このHorse Crag Levelへと訪れたのでした。それは、たぶん、1935年のことだったと思われます。この年の6月17日には、ウェザラムの側面にあるSwallow Scarの下部を、「古代の坑道」<anciant tunnels in the hill>の勉強に訪れています。ノスペリアスやJ.W.ショウのこうした協力を受けて、ランサムは、肝心な採鉱の場面を詳細に描くことが出来たのでした。
ランサムファンならよくご存じのように、ノスペリアスは、「つぶれソフト」ティモシイのモデルとして、また、J.W.ショウは、「かわらや」ボブとして作中に登場したのでした。そして、Horse Crag Levelは、ボブの鉱坑として使われました。

また、私見ですが、この「ツバメ号の伝書バト」で登場するカンチェンジュンガは、「ツバメの谷」のモデルのオールドマンではなくて、たぶん、ウェザラムのことではないか、と思います。

実在するHorse Crag LevelやハイトップスのモデルとされるConiston Moorの位置関係については、The Hill Countryにまとめてみましたので、ご覧になってみて下さい。











ハイトップスと採鉱の歴史

物語の中では、カンチェンジュンガの南東にハイトップスが配置されていますが、現実には、ウェザラム<Wetherlam>の南東に存在する地域が、ハイトップスのモデルのようです。具体的には、Coniston Moorに属する北方部分の地域で、Tilberthwaite Gillのすぐ南、かつFurness Fellsの斜面の東側の地域一帯をランサムは、ハイトップスとしてイメージしていたようです。
ところが、銅など鉱物の採鉱に関しては、この地域よりも、むしろ、Oldmanの北東にあるConiston Fellsがこの地方では昔から知られていました。
「ツバメの谷」で子供たちがカンチェンジュンガの登頂に使ったとされるルートは、ちょうどこのConiston Fellsに含まれています。

このConiston Fellsで本格的な採鉱がはじまったのは、16世紀の終わり頃からでした。この当時は、王室鉱山会社<Company of Mines Royal>によって雇用された、チロル地方出身のドイツ人達によって、採鉱が行われていました。17世紀には、固い地質を彼らは200フィート(約60メートル)以上も地下に掘り進めていたそうです。18世紀の終わり頃になると、彼らの後を引き継いで、マクルスフィールド銅会社<Macllesfield Copper Company>が、更に範囲を広げて、採鉱を進めました。その結果、Levers Waterの東側のBonsorなどにかなりな長さの鉱脈が存在していることがわかりました。19世紀のはじめには、John Taylorという人物を中心として開発に拍車がかかりました。この頃になると、より効率的に作業を進めるため、エンジンを利用した採掘機を投入したので、丘の斜面や地面のいたるところに、その努力の跡、すなわち、鉱口が増えていったのでした。

そうして、19世紀半ばには、鉱山は全盛期を迎えました。何百人もの人間が採鉱に従事するようになり、その多くは、アイルランド人で、祖国から直接来た者ばかりでなく、他の鉱山で働いていた者もコニストンへやって来たのでした。鉱山は、20世紀に入ってからも続けられましたが、1942年になって、Greeburn & Tilberthwaite Mining Companyが清算人によって処分されたことに伴い、コニストンの採鉱の歴史は一応の終わりを見ることになりました。しかし、その後も数は多くないものの、いくつかの会社が鉱物の発掘を続けているようです。

フリーメースン

368ページ(26章「じぶんたちだけで、やらなくてはならない。」)には、次のような記述があります。

ナンシイはマッチ箱を手にとってみた。みんなが、わっととりまいた。そのマッチがじぶんたちのものでないことは、だれにもわかった。まず、形がちがっていて、あまり厚みがなかった。つぎに、絵が、見なれたノアの箱船ではなく、まん中に目がひとつある赤い三角が、まわりに赤い光線をはなっているものだった。

子供時代にここを読んだときにはわからなかったのですが、数年前に読み返してみて、ふと気がついたことがありました。『まん中に目がひとつある赤い三角が、まわりに赤い光線をはなっている』という描写は、「万物を見る目」のことではないでしょうか。そして、「万物を見る目」とは、かの有名な秘密結社フリーメースンの象徴です。フリーメースンは、アメリカでは「自由、平等、博愛」を掲げ、慈善団体あるいは相互扶助団体として広く認知されているようで、秘密結社というイメージは、実はほとんどないのだそうです。しかし、その起源には様々な説があって、古代ユダヤにまで遡るとか、中世の石工職人組合が起源であるとか、諸説紛々としており、決定的なことはよくわからないのが実状です。組織的に戒律、規則などが事細かくきめられており、入会にあたっては、入念な審査のもとにおどろおどろしい儀式まであるということです。組織構成も、極めて複雑な位階制度を取り入れており、派によっては33位階だったり、7位階だったりするようです。位の高い会員は、ロッジと呼ばれ、組織の運営をまかされる、とのこと。ちなみに、原則として女性は入会ができません 。

さて、その「万物を見る目」は、実は、米国の国璽(国家をあらわす印章、公式文書などに使用される)の裏側にも使用されており、同様に1ドル紙幣の裏側にも印刷されています。このフリーメースンの象徴を国璽に使っていることや、わかっているだけで過去に13人もの大統領がフリーメースンだったことから、米国はその独立の過程やその後の政治経済において、フリーメースンと深く結びつきがある、と言われています。また、フリーメースンは、米国にのみ存在する組織ではなく、全世界的にそのネットワークが構成されていて、過去の歴史の中でも重要な場面に古くから関係していた、とも噂されていますが、この団体は、キリスト教の価値体系やユダヤ系社会などと深く繋がっていて、我々が想像する以上に各方面に対する影響力を持っているようです。


米国国璽(表) 米国国璽(裏)
13の数の符号
(13という数は、フリーメースンにおいては、上部が
ピラミッド状の立方体を意味する、のだそうです。)
  • 米国の13植民地を表す胸の縦の線が13本
  • 鷲の頭上に輝くが13
  • 鷲の右足が掴んでいる、平和を表すオリーヴの小枝の葉と実が13個
  • 鷲の左足が掴んでいる、戦争を意味する矢の数が13本
  • リボンに書かれている文字が13<E Pluribus Unum>「多くからひとつ」
  • 未完成のピラミッドが13段
  • リボンの中の文字が13<Novus Ordo Seclorum>「時代の新秩序」
  • ピラミッドの上の文字が13<Annuit Coeptis>「神はわれらの企てにくみしたまえり」


では、ランサムとフリーメースンとのつながりはどうだったのでしょうか?
果たして、ランサムはフリーメースンだったのでしょうか?

英国のフリーメースンは、18世紀の頃から、パブで集会を開くことが常となっていたようです。そのパブに出かけることがランサムは好きだったこと。また、ランサムの「自伝」の中に登場する、ロシア革命当時の臨時政府の首相だったケレンスキーは、実はフリーメースンだったことが彼自身の回想録からわかっていて、それをランサムは知っていた可能性があること。などから、少なくとも、ランサムはフリーメースンの存在は、知っていた可能性がある、と考えられます。とはいうものの、英国の男性は成人になるとよくパブを利用するようなので、この点に関しては、英国の成人男性(女性も)は誰しも、フリーメースンのことを知りうる立場にある、とも言えるのかもしれません。いずれにせよ、ランサムが、「万物を見る目」を具体的に描いているところを見ると、その意味するところを案外知っていて、敢えて物語の中に挿入した、と受け取れなくもありません。それとも、単に見たままのマッチの図柄を描写しただけだったのでしょうか。

ランサムはフリーメースンだったのか?
これの答えについては全くわかりません。すくなくとも、彼がフリーメースンだった、と言う記録は何も残ってはいません。しかし、彼は家を持つことよりも船を持つことに執着していて、かなりの時間を帆走に費やしていました。加えて、次から次へと発生する健康問題もあって、当然それの治療に携わる時間も常人よりは多かったろう、と思われます。そして、どの作品も完成するまでには、時間をかけて随分と生みの苦しみを味わってきたのでした。そんなことを考え合わすと、仮にランサムがフリーメースンだったとしても、それに関わっていた時間は、たぶん、あまりなかったろうと思われます。それと、サーガ全体を見ても、キリスト教的価値観というのは、ほとんどと言っていいくらいに表されていません。例えば、子どもたちをとってみても、食事の前後にお祈りをしている、などという光景は作中には全く描かれていません。敢えて言うと、キリスト教的価値観に乏しいため、私たち日本人ににとっても、親しみやすい作品群になっているわけで、これらのことを総合すると、ランサム自身がフリーメースンだった可能性は、ほとんど考えられないのではないでしょうか。
自由人であり、船乗りでもある人間と、掟の厳しそうなフリーメースンというのは、ちょっと繋がらないような感じがします。
Swallows, Amazons & D's For Ever !