冬の奇跡
いつもより長めですね〜。
クリスマス前ってことで♪
涼しい風が流れていた。
彼はそっと目を閉じて風を全身に浴びた。
自分がその流れに溶けていく。風になる。
心地よさに包まれて彼が目を開けると、そこには青々とした緑の海原――豊かな大草原が広がっていた。
微笑みが浮かぶ。
「いいよね。地球って」
何気なくそんなことを呟いてみる。彼は変なことをいったなと思った。
彼が振り返ると、儚そうな、触れると壊れてしまいそうな、そんな少女が座っていた。
「そうだねぇ。ホントに素敵」
少女がにこりと笑う。長い髪が風にたなびいた。
少女はそのまま彼に語りかけた。
「ねぇ、裕?」
「ん。なんだい?」
彼――裕は、今自分の名を思い出したかのような奇妙な感覚に捕らわれながらも、少女に返事を返した。
けれど、少女は立ち上がりながら、
「ううん。なんでもないよ」
と笑った。曖昧な笑みだ。何故か裕はそう思った。
そして、あえてそのことは気にしないことに決めた。
「寒くなってきたねぇ」
裕ははっとした。さっきまでただ涼しいとだけ思っていたが、少女の言うとおりに少し肌寒い。いつのまにか。
いや、気のせいだろうか。気温が急激に下がり、草原には茶色が混じり始めていた。
「なぁ――」
そのことを少女に告げようと、裕は彼女の名を呼ぼうとし――言葉に詰まった。
「なあにぃ?」
少女は首を傾げた。裕は、「あ。いや、その……」と口ごもった。
一瞬の沈黙の後、少女が空を仰いだ。
「わたし、冬って好き」
「え?」
いきなりの話題に裕は戸惑った。
「ほら。わたしの名前にも入ってるし、ね」
「ああ、そうか」
裕は合点がいったように頷いた。
そして、口を開閉し、
「――冬華」
「ん?」
冬華が微笑んだ。裕は安堵した。
どうして……どうして、少しの間とはいえ、彼女の名を忘れてしまったのだろう?
そう。彼は長く彼女と共に過ごしてきたはずなのに。
「いや、さっきまでこの草原って辺り一面青々としてたのにさ、いつの間にか枯れ草が目立ってきたなぁと思って」
頭がごちゃごちゃと混乱してきて、裕はしどろもどろに言った。
「そうだっけ。ずっとこうじゃなかった?」
「あれ。そうだっけ?」
人差し指をおとがいに当てて、思い返すように話す冬華に、裕は不安そうに返した。
「うん。だってもう冬だもん」
と、辺りにふわりと白く冷たいものが舞い降りてきた。雪だ。
「ほら」
冬華が言う。急に裕は不安な気持ちに駆られた。何かが変だ。一番大切なところが自分の常識と食い違っているような気がした。
「雪が降ると、そろそろだなあって思うんだ」
「……何が?」
胸にわき起こる、暗い霞を吐き出すように裕は尋ねた。
雪が積もってきた。風とその風に舞う雪で、辺りはひんやりとした静寂に包まれていた。
明るく冬華は言った。
「クリスマスだよぉ」
「クリスマス?」
「そうだよ」と彼女が頷いた。
「クリスマス。子供達がサンタさんが枕元にプレゼントを置いていってくれたのに気がつく日」
冬華はあくまで明るい。だが、
「そして、私達の夢が叶う日でもあるんだよね……」
そこで急に冬華の顔にかげりが見えた。
「どうかしたのか?」
裕は気遣うように言った。
「………」
「………」
風が吹いているはずだが、その昔は雪に消えていく。
いつのまにか、草木も花も、色あるものは全て白に覆われていた。色のあせた世界がどこまでも続いていた。
「ねぇ。裕……?」
「……なんだい」
沈黙を破ったのは冬華の方だった。風が強くなった。
それからまた長く間が空いた。冬華はひどく悲しそうだった。苦しそうで、悩ましげだった。
そして、一言呟いた。
「ここは、どこだと思う?」
と。
「え?」
そんなことは決まっているだろう。そう答えようとして……詰まった。
「今は本当はいつ? 冬?」
冬華は矢継ぎ早に尋ねる。彼は答えられない。
「………」
「私は、だれ?」
「……冬華」
「本当に?」
不安な気持ちがどんどん胸に溢れていく。
「ごめんね。困らせるようなこと言って」
哀しそうな顔。辛そうな顔。裕も苦しくなった。
そして、裕は何一つ答える術がなかった。
「……もう一個だけ、質問するよ?」
「ああ……」
今までで一番長い静寂だった。耳が痛くなってくるような程に音がない。感覚までが薄れているように裕は感じた。
「裕。あなたは、どこから来たの?」
「!!」
衝撃が裕の胸に走る。
「なにを……」
「さっき、ここを……地球だって言ってたよね?」
言った。「いいよね。地球って」と。
「ここが、地球だと思う?」
思わない。ここは地球とは似て非なる場所。
「だけど……」
裕は納得がいかなかった。
「そんなことがあるわけないじゃないか」
そういって食い下がる。だが、冬華は首を横に振った。
「違う。違うんだよ、裕……」
彼女は泣きそうだった。
「これは奇跡なの……」
「奇跡?」
「そう」
冬華は俯いた。声が震えている。
「でも、この奇跡は間違いだったの……」
「どういう、ことだよ?」
「………」
冬華は答えない。
ついに、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
彼女が突然壊れそうなガラスのように見えて、そっと裕は彼女を抱きしめた。
「ホントに、どういうことなんだよ。教えてくれよ……」
「だめなの。奇跡は間違いだったから……この場所も消えるの……」
「冬華は……お前はどうなるんだよ!」
「それは……」と涙を拭いながら冬華は呟いた。
「……ううん。私は大丈夫だよ。初めからいなくてもよかった存在だから」
「なんだよ、それ!」
抱きしめる腕に力を入れる。
「いなくてもよかったなんていうなよ。僕にとって君は……すごく、すごく大切な――」
「ううん」
冬華は抱きしめる裕の手をそっととり、
「それも、違うの……」
「違う?」
沈黙が流れる。気のせいではなく、辺り一帯が真っ白な光に包まれ、音が全く消える。
そして、どれくらい経っただろうか。
「あなたは、帰るべきなの……」
「どこへ?」
「あなたが、知っているわ……」
裕はわからなかった。けれど、胸が痛む……。知っている?
「目を閉じて……」
「目を?」
「思い出させて上げるから」
わからぬままに裕は目をつぶった。なんだろう。忘れていたこと。懐かしいもの。好きなもの。嫌いなもの。
なんだろう。
思い浮かぶ。学校の裏庭。
そうか。僕は……。
唇に柔らかいものが触れた。裕は驚き目を開く。そこにあったのは……
そこにあったのは、冷たい雪景色だった。雪に半分隠れるように裕は倒れていた。
「おいおい、大丈夫かぁ!?」
だれかの声。
「ちょ、ちょっと!!」
悲鳴のような声。
他にもいくつか聞こえる声。
聞き覚えがある、あの澄んだソプラノではない。その声の主が誰なのかも思い出せないが。
「う……ん……」
うめき声と共に立ち上がった。
身体が冷たい。
当たり前か……。雪の中で眠っていたんだから。
裕は心の中で呟いた。
「おい、裕!」
「裕君!」
一組の男女が近づいてきた。
「…………」
「おい?」
心配そうに裕を見ている。
「……達也。美樹」
思い出せた。二人の名前が。裕は、何故か無性に哀しくなった。
「ホント、大丈夫?」
「さあ」
「さあって……」
あきれたような顔で達也。
裕はかぶりを振った。
「どうして僕は、こんなとこに寝てるんだっけ?」
「覚えてないの?」
美樹が尋ね、裕は頷いた。
「お前はさ、落ちたんだよ。あそこから」
達也の指す方を見ると、学校の二階のベランダが見えた。
「しかし、怪我がなくてよかったね」
「雪のおかげだな」
「雪……」
自分の身体を包むような雪。小さなつぶやきが漏れる。
「……冬、なんだ。今」
「うん?」
不思議そうな顔をする二人に裕は尋ねた。
「今日って、何月何日だっけ?」
唐突な質問に面食らいながらも達也が答えた。
「12月……23日だぜ?」
「12月23日、か」
クスリと笑いが漏れる。そんな裕に二人は「頭でもうったろうか」と心配そうな顔をする。
「ハハ……ハハハハハ……」
心から可笑しく思った。そして、思い出した。大切だと思った人の名を。
「なんだ。クリスマス・イブでもないじゃないか……」
クスクスと笑いながら続ける。
「クリスマスでもないのに……夢を叶えるのを焦ってしまったんだね」
「お、おい?」
「ハハハ……」
「裕?」
美樹の言葉に「なんだい?」と答える。
「その……涙、でてるよ」
「え?」
そっと自分のほほに触れる。一筋のぬくもりを感じた。
「どうか、した?」
気遣わしげな二人の視線。涙を拭いながら、首を横に振った。
「なんでもない。なんでもないよ」
「でもさ……」
「ほら……。確かそろそろ休憩時間おわるだろ? 今休憩時間だったよね」
「あ、ああ……」
裕は少し俯きながら歩き出した。
「お、おいって」
「まってよ〜」
後ろから二人がついてきた。
裕は、空を仰いだ。
雪が降る雲間から、一筋の光が漏れていた。
(冬華。君はクリスマスの奇跡だったんだね。ちょっと、足早にやってきてしまった……)
奇跡だったんだろう。でも、幻だったんだろうか?
(幻なんかじゃないよね。僕は覚えてる)
その時、雲間から漏れる光がひときわ輝いた。
「……!」
その光の中に、裕は彼女の、冬華の微笑みを見た。
「……僕は忘れないよ。ずっと、ずっと覚えている」
そして、達也と美樹がすぐ近くまで追いついてきているのを確認し、
「本当にありがとう……冬華」
雪が煌めいた。
冷たい空に温もりを感じるような、そんな煌めきだった。
クリスマス・イブの前日に起きた偶然に感謝しながら、裕は光に微笑みを返した。
おわり