つれづればなし


ここでは葵が徒然ながらに思っているような
駄文を語っていこうかと思いまする。


★言葉のはなし

 葵は常日頃、言葉というのは何かと考えています。
 もちろん、何かの確証があったりするわけではないのですが、 ちょっとした戯言とでも思って聞いていただければ幸いに思います。

 葵はまず次のように考えました。
 他人と交わす言葉が無ければ存在というモノは確定されないのだと。
 もちろん言葉がなくても存在はそこにあります。動植物に無生物、風も空も何だって。
 だけれど、それをあらわすには、ヒトとヒトが互いにそれを認識していることを示すには、 言葉を用いる必要が出てくるのです。
 あるヒトには丸く見えているものが他のヒトには四角く見えているかもしれない。だけど、 お互いがそうだと言わない限りは相手も自分と同じように見えているはずだと思い込みます。
 試しに一人が「あれは丸いね」と言うともう一人が、 「いや、あれは四角だね」と言うわけです。
 ここで2人はそのモノの本当の姿を模索してみます。
 すると、それが実は丸に近い四角だったりするわけです。
 自分一人の認識とはとても曖昧なもので、ヒトとの会話の中でしかその本質は見つかりません。 だから、ヒトがモノを考えるには"会話"や"議論"が必要になるわけです。

 さて、言葉はそれを使う一人の人間にあってもかなり重要です。
 例えば、皆さんは何かを考えるに当たって、"どうやって"考えていますか?
 "言葉"によって考えていますよね。
 ヒトは何かを考える時には思考としての言葉を使い、 それを音としての言葉を発することで周りにその考えを伝えます。
 考えるということ、それは人間が日常生活自然に行っているものであり、 アイデンティティの基礎であり、自己が自己である限りヒトは考えを続けます。
 ここで、どうして考えるには言葉が必要なのでしょう。
 それは、言葉が体系だからです。
 ヒトがほとんど自動的に、論理的にモノを整理しているから言葉で考えているわけです。
 言葉をもちいない思考は、"感覚的"、"直感的"とか"本能的"と形容されます。
 当然、"感覚的"な思考は過去の経験や想像等から推理して導き出されたモノなので それが完全に適当なものであるとは言えません。
 けれど、整理して吟味する。それを行うには言葉が必要になるのです。

 貴方の右側にある景色を全く考えずに表現して下さい。
 このように言われたらどうしますか?
 例えば、あなたの右側にはベッドがあったり本棚があったり食卓があったり…… 各々違った景色があることでしょう。
 けれど、それを"全く考えずに”、果たして表現できましたでしょうか。
 意識して考えない様に表現すれば、 それは幼稚な表現や切れ切れの単語の集合になったでしょう。
 考えないければ途端にモノの存在が曖昧になるのです。

 貴方はこれから一生"あらゆる名詞(代名詞を含む)"を使わずに暮らして下さい。
 このように言われた場合も考えましょう。
 名詞が封じられれば、つまり"主語"や"目的語"等が使えなくなるのです。
 この状態であなたが「S君はドイツへ行きたがっている」ということをヒトに伝えるとします。
 するとそれは「行きたがっている」としかならないのです。
 聞いたヒトは"誰が""どこへ"と聞きますが、貴方はそれを説明できないわけです。
 ある事実を説明できなくなるのです。
 同様に、「Aタワーは、東京都にあるサイコロのように四角くい建物だ」 とヒトに言おうとします。
 すると、「四角いんだ」としか言えないのです。 必死にそれが何なのかを伝えようとあなたはジェスチャーを使うかもしれませんが、 それでも他人はあなたが何について話しているのかよくわからないでしょう。
 このように貴方がいくら認識しているものでも存在を確定できなくなりました。

 このようなことから葵は言葉がいかに大切で、 事実・存在の確定に一役かっているかを考えるのです。
 そして、言葉がいかにおもしろく、 言葉をいかに重要視すべきかをここに著わしたいと思ったのでした。
 みなさんも言葉については一度考えていただければと思います。


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