つれづればなし


ここでは葵が徒然ながらに思っているような
駄文を語っていこうかと思いまする。


★時間のはなし
 桜町葵。もうすぐ高校卒業です。
 早いですよね。小学生の頃なんて、自分はいつまでも小学生なんだと思ってました。
 さて、今回は時間のはなしです。
 結局時間とはどのようなものなのでしょうか。

 というところで、恒例(?)の辞書引きです。

  じかん 【時間】
   ・〔哲〕空間とともに世界を成立させる基本形式。普通、出来事や
    意識の継起する流れとして認識され、過去・現在・未来の不可逆
    な方向をもつ。理念・精神・神など超時間的な永遠の存在を認め
    る立場では、生成変化する現象界(事物)の性質とみなされる。
    また、先天的な直観形式だとする考え(カント)、物質の根本的
    な存在形式としての客観的実在だとする考え(唯物論)などがある。
   ・〔物〕自然現象の経過を記述するための変数。古典力学で用いら
    れる時間(絶対時間)は、二つの事象の間の時間経過の長さが、
    座標系(観測者)に依らず一定である。相対性理論では、時間は
    空間とともに四次元時空を形成し、観測者に対して運動する座標
    系での時間は、ゆっくり経過すると観測される。また一般相対性
    理論によれば、時間経過の長さは、重力の大きさによっても影響
    される。


 ひとつの言葉に対して指す事例が多いので基本的なイメージは少し省きました。
 実際のとこ、辞書に書いてある「時間」は、皆さんのイメージ通りのものなんですけどね。

 辞書見ただけで十分って言っちゃえばそれまでなんですけど。
 なので今回は辞書に葵の意見を加える形にしてみます。

 では初めに、簡単にまとめてみます。(ちなみに今回の話に関係ない部分は省きます)
 一)時間は空間と一対に存在して世界を成立させる
 二)時間は過去・現在・未来へと一方通行に進み戻ることはない
 三)物質の根本である普遍の実在であるという論(唯物論)もある
 四)物事の経過を記述するための変数(記号)
 五)古典力学では誰が測っても時間の長さは一定である


 注釈をいくつか。
 唯物論とは、精神や意識なんかも物質に還元して捉える考え方のことです。
 古典力学とは相対論的力学や量子力学以前のニュートンの運動の法則を根本原理と する力学です。

 なんだか難しい話になりそうだと思われるかもしれませんが、 葵もよくわかってないので別に複雑な数式が出てきたりとかはしませんのでご安心を。
 あと今から話す「時間」は「個の時間」じゃなく「全体の時間」です。

 もし時間(記号としてではなく普遍的に流れていく時間)がなければどうなるのでしょう。
 時間がないということは、つまり「時間が止まってる」という状態すら存在しません。
 「時間が止まっている状態」があるならば「固定され止まっている空間」がありえます。 けれど「時間がない状態」においては「空間がある状態」は存在しないことになります。
 どうして人は時間が存在するのかわかるのでしょう。それは、過去・現在・未来があるから です。ある一つの事柄があって、それが「以前はAで今はBとなりおそらく将来はCとなる」 という流れがあり、実際に人がそれを経験する(或いは肌で感じる)ためにわかるのです。
 つまり空間が変化していく中でその変化の過程を時間として捉えているわけですね。
 二)で一方通行と言っているのは、一度変化したモノ(A)はもう元には戻らないからです。 もし元に戻ったとしてもそれは似ているがどこかが異なるモノ(A')でしかないのです。
 時間が止まるということは空間の変化が止まるということです。空間が止まっているから 時間も止まっています。従って「時間が止まっている」ならば「空間は存在する」のです。
 「時間がある」ならば「空間がある」わけです。だから「空間がない」ならば「時間がない」 ことになります。そして空間が変化することで時間の経過が発生する限り、「時間がない」なら 「空間がない」ことになるのです。

 さて、時間がないという状態は上記の通りではないでしょうか。
 では、次に時間があるならばどうなるのか考えます。

 まず五)を見てください。
 絶対時間とはニュートンの考えた止まった空間における、光を無限大とした時の一定の時間です。
 けれど現在はアインシュタインの相対性理論により、宇宙は膨張しているため実際には絶対時間は ありえないというようにされています。
 とはいえ、間が記号として扱う時間とは常に一定でなければ使い勝手が悪いので、 便宜上の概念として絶対時間は存在しなければなりません。
 もし相対性理論が真実だとして、絶対時間はないものとしたらどうなるか。
 歩いてる時に「今は何時だろう」と思ったとして、光速ジェットに乗ってる友人に通信を行って 時間を聞いてみたとします。その時間をメモしてすぐ後に実際の時計を見ます。すると、メモした 時間が実際より遅れていることがわかります。少し例が極端過ぎましたが、光速ジェットではなく 電車に乗ってる友人でもこれはありえることになります。その場合はほんの僅かでしょうが。
 そうなると人によってどんどん時間がずれていきろくに時間の計算もできなくなります。
 そうならないためにも、ある定まった標準としての時間はなければならないのです。
 もちろん、それは記号としての、変数としての時間です。よって四)がわかりますね。
 さて、これで初めて一秒二秒とモノを数えることができます。
 基準としての時間があれば、物質の変化を測ることができます。
 二つの氷を机の上に置き、一つは熱源を近くに置きます。二つが完全に溶ける時間の差は?
 このように問われたとき、時間がなければこの問いに答えることができません。できるとしても こっち(熱源のそばの氷)が大分早く溶けた、等と大体にしか答えられないでしょう。
 基準としての時間があれば、確実な契約することができます。
 誰かとデートの約束をします。それが「二時に○○公園で会いましょう」と言えば、それがいつ頃か 特定できます。そしてその人と円滑に人間関係を深められるわけです。しかし、これが「日が真上に 昇った頃に□□公園で会いましょう」と言ったらどうでしょうか。日が昇ったと思う程度は人によって 異なりますし、何より急に曇りだしたら昇ったも何もありません。
 これだけでもわかるように、時間という記号があれば日常・特別に関わらず何かの行動をするのに 便利になります。

 はてさて、時間とは何なのか。
 それは便利なものです。そしてなければ世界自体がなくなってしまうものです。
 それ以上でも以下でもないでしょう。
 締めがあっけないですが、葵は以上として考えます。
 時間の不思議は本当はもっと解明しがたいものなのかもしれません。
 ですが、だからこそ皆さんも考えてみてはいかがでしょうか。



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