★ツキミソウの想いで 「明日、雨が降ったら夏が来るんだよね」 そう健太に尋ねたのは妹の夏美だった。 「明日降ればね……」 健太はぶっきらぼうに答えた。 友人達と遊びにいこうとしてかぶっていた帽子を部屋の隅に投げやってから、 健太は妹に目を向けた。 病気の妹。ベッドで寝て暮らす妹。学校に行けない妹。さもなければ一年も生 きられないと宣告された妹。 健太は妹の夏美のことが苦手だった。嫌いなわけはなかったが。 食事を共に取ることもなければ一緒に遊ぶこともあまりない。最近は、健太が 進んで妹の部屋に行くこともなくなったため話す機会もなくなった。 それなのに今健太は夏美の部屋にいて、妹のベッドにもたれかかり、足を伸ば して床に座っていた。 今日遠出の用事がある母親からの言い付けだった。今日一日くらい夏美の話し相 手になってやれと。 「明日、天気予報じゃ晴れるって言ってたけどな」 「うん……。テレビで見たから知ってる」 「そっか」 夏見の部屋にはテレビもあるしMDコンポもある。ひょっとしたら来年まで生 きられない娘に両親が買い与えたものだった。健太は、なんでも買ってもらえる 妹が少し羨ましかった。そして、そう思うことに罪悪感も感じていた。 「去年も一昨年も、晴れだったよな」 「うん……」 「すっげぇ、暑かったな」 「うん……」 仰ぐ様にして健太は妹を見た。夏見は兄に微笑んでいた。兄は妹に愛称で語り かけた。 「なぁ、なつ」 「なぁに、お兄ちゃん」 カーテンの隙間から射し込む細い日の光が少し眩しくて、健太は手で遮った。 「あれ、嘘だぜ」 「……なんのこと?」 「明日……お前の誕生日に雨が降れば夏が」 「お兄ちゃん」 夏美が健太の言葉を遮る。そして静かに首を横に振った。 健太は顔を前に戻し、少しうつむいていった。 「毎年、夏はちゃんと来てるんだ。お前だってわかってるだろ? セミの鳴き声 とか、プールに行くガキ達とか……」 「………」 妹の返事はなかった。だから、兄もそれ以上喋るのを止めた。 二人は沈黙した。二人が沈黙したところで、外の人の声、車の音、それに虫や 風の声のせいで静寂は訪れなかったのだが。 「お兄ちゃん……?」 沈黙を破ったのは、意外にも、夏見の方だった。健太が小さく、呟くように返 事をする。 「ん。なんだよ」 「なつは……お兄ちゃんの言葉嬉しかったよ?」 「うん?」 「なつ、一生自分の思う様には外に出られないって思ってた。前はね」 健太の首筋に触れるものがあった。白くて冷たい、そして小さな妹の手。それ がそっと、弱々しく触れていた。 「それで泣いてた。ずっと……」 兄は妹の言葉をじっと聞いていた。そういえば、こんなに長く妹の話を聞くの は久しぶりかもしれない。 「でもね。四年前、なつの誕生日の前の日に、明日雨が降ったらお前にも夏が来 るぜ、ってお兄ちゃんが言ってくれた。そんなことあるはずがないって、なつに は夏っていう季節、来ないって思ってたのに……」 「………」 「その次の日のなつの誕生日、雨が降って……お父さんとお母さんがなつの誕生 ケーキ、買いに行ってて……お兄ちゃんが部屋に来て」 「お前と傘を持って家を出た」 目を閉じて、健太は言った。 「うん……。傘差しながら、なつをおぶってくれた……」 「暇だったんだけだって。雨の日に友達と遊ぶのも面倒臭かったし……それに、 俺には誕生日プレゼント買ってやるほどの金もなかったから」 ふと気がつくと、夏美の手が健太の両肩に乗っていた。健太は気づかないかの ようにして、そっと目を開けた。 「なつは、陽射しに当たったり体を動かしたりとか、控えさせられてるからな。 歩かせちゃいけないって言われてたんだよ」 そんなことを口にした。部屋の隅の帽子が少し揺れたのが見えた。隙間風が入 ってきてるのかもしれない。 妹はよく澄んだ声で言葉を返す。 「自分の目で本当の夏っていう季節を見られるなんて思ってなかった。ツキミソ ウとかオシロイバナとか見られるなんて思ってなかった……誰かに持ってきても らったりするんじゃなくて、自分で……」 「……お前の誕生日に、また少しでも雨が降ったら連れてってやるよ。雨の日は 暇だからな」 自分の言葉に、胸が痛んだ。自分に語りかける声がある。どうして……と。 「また、見たいな……。今年がダメでも、来年や再来年や……」 ずきりとする痛みがある。夏美の言葉を聞いていると苦しくなる。健太はその 苦しみに耐えられなくなって、声をしぼりだす。 「もし明日雨が降ったら、これからはお前の好きな時にはいつでも外に連れてっ てやるよ……」 「ほんと!?」 妹の声が歓喜に震える。本当に嬉しそうな声だった。 「ありがとう、お兄ちゃん!」 「そんなに喜ぶなよ。たいしたことじゃ、ないんだから」 違う。たいしたことじゃないはずがない。健太にはわかっていた。妹にとって は当然のことじゃないんだ、と。 「本当に……ありがとう。お兄ちゃん……」 健太の首を、肩を両腕で抱きしめて夏見はささやいた。耳元に聞えてくる妹の 息遣いが、何故かとても哀しかった。 だから兄は妹の頭を、少し無理な体勢で、 そっと撫でてやった。腕を下ろす時に、妹の頬に手が触れた。濡れている。熱い 雫が、夏美の頬を濡らしていた。 ガチャリと、玄関で音がする。母が帰ってきたようだ。 「……それじゃあ、俺自分の部屋に戻るから」 「う、うん」 健太がそう言うと、少し慌てた様にして兄を解放した。 「……お兄ちゃん」 部屋を出ようとした健太を夏美の声が引き止める。兄は妹に振り向いた。 「なんだよ」 妹は、満面の、けれどどこか儚く消えてしまいそうな笑顔をたたえていた。美 しく、可憐な笑顔を。そして、はっきりと、呟いた。 「……大好き」 と。 「……寝とけ」 健太は妹の部屋を出て、静かに閉めた。 何が『もし明日雨が降ったら、これからはお前の好きな時にはいつでも外に連 れてってやる』だ。何をいまさら……。健太は自嘲するように口の端を釣り上げ た。 そして、ベッドに倒れこんだ。どうしてか痛む、泣きたくなるような気持ちを 抑えながら。 次の日。夏美の誕生日。天気予報は外れ雨が降った。 なのに、それを喜ぶべき夏美はもういない。 朝、夏美が激しく苦しみだし、救急車を読んで病院へと運んだ。医者は何か健 太にはよく聞き取れないほどの早口で病名を呟き、それが悪化したのだと言った。 手術をしたが手後れだった。両親は泣いていた。わずかに残った時間で夏美と 話せと医者が言い、家族はそれに従った。 いつもと変わらない夏美がいた。 チューブに繋がれ、顔も蒼白で、それなのに可憐で儚げな夏美がそこには横た わって、家族に微笑みかけていた。 誰も夏美に一言以上声をかけられるものはいなかった。夏美だけが一人で、哀 しいくらい元気そうに喋った。健太は黙っていた。母親は泣き、父はただ相づち を打っていた。 急に夏美の声に元気がなくなった。呼吸も途切れだした。 そう、少し辛そうにせがむ妹の手を、兄は強く握り締めてやった。 そう無理をして、夏美が照れたように笑う。両親の手も、兄妹の手の上に置か れた。 やめてくれ。健太は思った。泣かない様に、してるんだ……。 そして、その後に呟かれた言葉を、健太は覚えている。妹の、夏美の言葉を。 そういっきに喋って、夏美は家族の顔を見回した。まるでその顔を記憶するよ うに。 それから、ありがとうと一言呟くと、し合わせそうな顔をして夏美は息を引き 取った。 家に帰って、自分の部屋で健太は泣いた。ベッドにうつ伏せになり、独りにな って泣いた。 「苦手だなんて、嘘吐きが……。本当は可愛くて仕方なかったくせに……」 ただ少し、恥ずかしかっただけ。妹を可愛がるのを友人にからかわれて、距離 を取る様になってしまっていただけ。 「なんでもっと、優しくしてやれなかったんだよ……」 どこかで、妹が死ぬはずがないと信じていた。悪夢のような未来を考えない様 にしていた。 「もっと、外に連れ出してやればよかった。いろんなものを見せてやればよかっ た。その機会は、いつだってあったのにな……」 ちょっとした意地と、妹の身体を気遣う本心が相成ってできなかった。その罪 悪感が、余計に健太を夏美から遠ざけた。 「大好きだって、俺も言ってやればよかった……」 あの笑顔が。自分のの容体の変化を感じ取り、死期を悟って気丈に振る舞いな がら妹が兄に伝えた言葉。 思い出して、さらに泣けてきた。 「俺も。俺だって……」 言葉にできなかった。今口にしてはいけない気がした。 代わりに、涙が流れ落ちてベッドシーツを濡らした。 一年が過ぎた。そして、夏美の命日で、そして誕生日のその日がやってきた。 また。 墓前に立って妹の名が刻まれた石を見つめる。父と母はその石を丹念に洗い、 清め、花で飾っていた。 「……ごめんな」 健太は口の中だけでその言葉を転がした。 セミの鳴き声がした。風が吹いた。草木が揺れた。 晴天の空から天気雨が降ってきた。 驚いて空を見上げると、すぐに雨は止んでしまった。 「なつ……夏美……」 呟く健太の眼前に、ひらりと何かが落ちてきた。 一輪の、ツキミソウ。 雨の雫に濡れて、まるで夏美が微笑んでいるように、輝いていた。 「夏美……ごめんな。……ありがとう」 その花をじっと見つめながら健太は小さく、小さく呟いた。 ずっと前、妹が教えてくれた言葉を思い出す。 「……"自由な心"」 健太の頬に、一筋の涙が伝った。 天気雨の去った後に、今まで以上の夏がやってきていた。 健太は、不自由な身体から解放された夏美が、精一杯はしゃいでいるような、 そんな想像をした。 |