馬島の灯台がまだ出来ない頃は、
外の浦や、
松原湾
に入る漁船のために、
万年ヶ鼻頂上に油を焚いて、
港
の入口を知らせていました。
夕方になると、
これに油を補給するため、
油缶をさ
げた老婆が、
提灯の明りで、
けもの道「狸や狐の通る道」
を、
しと、
しと、
登っていったのです。
「注)万年ヶ鼻の
下の部落ゆ・る・ぎ・の住人が」
川下の遊郭が出来たのは、
明治何年か判りませんが、
明治三十一年七月、
浜田に連隊が設立されたもので、
その頃ではないかと思われます。
貧困な世相であったその時代は、
遊郭に身売り「前借
りで三年から五年」する女子があとをたちませんでした。
川下「現
・港町」の遊郭の入口には、
大きな石の門があ
り、
裏の方も素通りすることは出来ませんでした。
男女が好きあって関係を結ぶのは、
自然の情として
お互いによろこばしいことですが、
彼女達は商品とし
て、
一日に何回となく、
又、
風邪をひいて具合の悪い
ときや、
生理の時であっても否応なく、
客をとらなけ
ればならなかったのです。
年期がきて、
来月は自由の身になれることがうれし
くて
「おかあさんお世話になりました。
来月でお暇を
頂戴します。」
とあいさつに行くと