NPOふるさと弥栄ネットワークは今年1月でちょうど1年を迎えます。昨年12月14日の第10回定例会で、理事長の佐々本氏を座長にこの1年の活動を振り返り、これからの方向について話あいました。その概要を報告します。
農芸学校部門(串崎部長)
「年間を通して、農業のさわりをやってみたということに、やることの意義はあっただろう。また、畑の場所が道路沿いにあったことで、村内の人たちへアピールになっていた。農芸学校としても環境部門等への参加や手伝い、畑を借りた集落やグループホームに取り組むNPO との交流会などつながりを広くもてた。ただ、村外からの参加者も少なく、村内の若者の参加を求めるのは無理があったように思う。主に外から弥栄村に来た人たちを中心に取り組んだ。
2年目は、日常的に農に関われない人が体験、協力する場所として、看板的な農地や、具体的な活動に対して呼びかける。多岐に渡る人たちとの関わりを広げていく。」
環境部門(佐崎部長)
「今年度の主な活動は、「森は海の里」。山の下草刈り作業を行った。講師として、山の専門の西田さん、漁師の渡辺さんをお招きした。短期間の準備だったが、当日は天気もよく、25人もの人が参加した。次回は、水源から河口へくだり、観察や河口での作業をしてみるのもいい。もっと早くから企画を立て、声を掛ける時間をしっかりとり、村内外からの参加を呼びかけたい。他に、第2のふるさと発見コースでゴミ対策として竹の食器作りなどを手伝った。
来年度は村内の「水澄ましやさか」と組んだ企画や部門をまたがった企画等にも取り組んでいく。」
交流部門(永野部長)
「交流部門としては、夏と秋の第2のふるさと発見コース、親子*第2のふるさとづくりに取り組み、のべ47名と弥栄村で交流することができた。その中には今、弥栄村へ来ることを具体的に検討している方もいる。 |
|
交流には近年、行政も力を入れている。NPOには行政にできないソフトの部分を担うことができる。これからは定住のための支援対策もNPOとしてしっかり取り組んでいくべきだろう。第2のふるさと発見コースの参加者には毎回、真剣に就農、定住を目的として来る人たちがいる。具体的な定住の情報、いいことだけではなくここでの本当の暮らしを伝えることができる。」
有機食品部門(佐藤部長)
「もともとは交流と有機と二つの柱でまちづくりのNPO を立ち上げた。有機食品部門としては有機JASの認証を受けるためのお手伝いとして取り組んできたが、JASを取ることができた。これを一つの区切りとして考えたいと思う。有機と限定せず、今県が推進する「エコ」を切り口にしていってもよい。もう少し広がりを持たせる形に変えていきたい。」
一年経ったところで、NPO全体として改善すべき点として以下2点があげられました。
@NPOスタッフ(会員)の捉え方。今現在、スタッフは限られてしまっている。活動の幅が広いので、会員と会員外でかかわっていく人たちとの待遇をはっきりとしていくこと。
A事務局員経費、事業スタッフ経費、その他必要経費をきちんと評価すること。
NPOふるさと弥栄ネットワークは、これまでボランティア的に活動してきた人たちが中心となって設立しました。現在も専従のスタッフはいません。それぞれが仕事をもちながら係わっています。NPOとして法人格を取った今、組織の確立、経営感覚を身につけていくことが、当面の課題です。その他には「初年度にもかかわらず、これだけの活動をがきちっとできたことは評価できる」、「定款や事業計画などNPO申請時には一字一句にまで気を使いながら準備するなど、実際に認定がとれるかどうかというところから係わってきたものがここまで形になってきた。」「計画した事業をやってきたことで、1つ1つやらなくてはいけないこと、変えていかなくてはいけないことが見えてきた」など、意見交換をしました。
最後に理事長佐々本氏から。「問題をプラスに転じて、自分たちが何者かというところから今後とも進めていきたい。」
|
|
|
|
|
|
|
|
弥栄の名前で思い出したことがあります。私が島根も弥栄も知らない頃も、「出雲」と「石見」としては頭の中にありました。今も島根県人は出雲と石見では言葉も気質も仝く違うと言います(例えば青森県人だって、津軽と南部はチガウと思っています)が、私にとって、石見とは何と言っても柿本人麻呂でした。和歌に詳しい訳ではなく、梅原猛氏のファンだったからです。「隠された十字架」「水底の歌」などには強いショックを受けました。よって私の中では、石見イコール人麻呂流刑の地だった訳です。(で、出雲はオオクニヌシの鎮魂の地、となります。鎮魂といえば、石見神楽でおなじみの「天神」。見る度、鎮魂の文字が浮かんでしまいます。横道にそれてばかりですが、左遷されて京に戻れなかった菅原道真のために、今もなお毎年何度でも、時平は倒されねばならぬ道理です。毎年恒例という意味では吉良上野介にも通じますね。 益田市には、人麻呂が祀られている柿本神社がある他、伝承も多く伝わっているとのことです。益田は人麻呂と雪舟の里ですから。いつかは人麻呂めぐりでも、と思いながら未だ果たせずにいる無精の私ですが、行ってみた人麻呂スポットがあります。弥栄にある「人麻呂の契岩」。村史にもちゃんと載っておりまました。村内日野原にあります。人麻呂上京の際、石見の妻、依羅のいも子とここで再会を誓って歌を読んだそうです。しかしその誓いは果たせずに、妻は待ちこがれて岩になってしまったのでした。「それから世の人々に恋を結ぶ結婚の神としてあがめられるようになり、昔はこの岩ほこらの榊に人々の結んだ紙片や笹の葉の結びが一杯にぶらさがっていたという」。なかなかスミにおけない弥栄村です。
田野原には、現代歌人の梅田敏夫さんもおられます。いかがでしょう。和歌と梅の香りが(道真も愛した梅)ふくいくと匂ってきそうではありませんか。新春にふさわしいところで結びとしましょう。
(佐々本 芙瑳恵)
|
新年のお慶びを申しあげます。よい年でありますように。
さて、早速ですが、「弥栄」という地名の謂われを知りたいというリクエストにお答えします。
明治22年の町村制施行で長安、高城、杵束村が成立、大正11年長安、高城村の合併で安城村となりました。昭和31年、安城村、杵束村の合併にあたって、村民からの公募によって「弥栄村」と決まったそうです。村史をひもといてみたところ(初めて!)旧村名「安城」「杵束」の文字を使わないこと、字数は村を入れ3文字、仮名は不可、当用漢字にて、などの条件の下に140名、137点の応募があったとのこと。その中から弥栄の名になった理由は、以下の如く。「安城村、杵束村の東南部に聳える中国山脈の弥畝山は雄大にして、新村もかくの如く雄々しく、将来の弥栄を願う意味において最も適切な村名」である。なるほど一。「弥」には、「いよいよ」「ますます」という意味があり、繁栄を願うココロが込められていたのですね。
私が初めてこの名を耳にした時は、古めかしい名前だと思いました。過疎の村と聞いたからそう思ったのでしょうか。どうにも、おめでたいのに古臭いこの雰囲気。仲間を探すとすれば「寿」。失礼、あくまで個人的独断ですからあしからず。現在でも広域の市町村合併が進められようとしていて、全国から村がなくなりそうですね。いや栄えよと名に託されたこの村は、どうなるでしょうか。 |
|
|
|
|
弥栄に来てからは、実際しんどかった。農場の仕事は今まで経験もなかった上に、以前勤めた福祉施設とは違い、いろいろな方向を目指す人たちと広くつきあっていかなくてはいけない。ただ、地元のおばちゃん、若い農業研修生など様々な人たちが一緒になって作業をする、これが共同体の姿勢だと感じた。
今、自分がやれることは、農業という産業の部分。農業は確かになるようにしかならないのかもしれない。でも、やれるところまでとことんやったしんどさをもって、『なるようにしかならんかった』といえるようになりたいと思う。そして、ここで暮らしていく中で、自分の係わりを福祉的な部分にも広げ、ゆくゆくは、双方をつなげていけるような役割をしていきたいと考えている。
2才のたお君をあやしながら話す正木さん。弥栄村には、まだまだたくさんの可能性があるようだ。
|
正木利明さんは、現在、やさか共同農場の農産チームリーダー、そして今年は小学校のPTA副会長を務めている。
4年前、福祉関係の仕事を勤めていた滋賀県から弥栄村へ越してきた。現在5人のお子さんとご両親、ご夫婦の9人家族で村の定住住宅に暮らす。
正木さんが弥栄村でめざしていきたいのは、「農業」と「福祉」を柱とした村づくり(イメージとしては「共同体づくり」だが、特定のグループ内に限らない)。当然、生活していくには経済的自立が必要だが、経済活動だけに基盤をおく社会ではそこに貢献できない人が必要でなくなってしまう。正木さんが目指すのは、そこで暮らす人がどんな人であれ、生き甲斐をもっていけること。やさか共同農場へ関心を持ったのも、前身の「弥栄之郷共同体」発足当初の共同体思想がきっかけだった。 |
|
|